照 井 亮 次 郎
明治7年(1874)〜昭和5年(1930)
メキシコ移民の父
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明治7年(1874)、照井亮蔵(花巻市東十二丁目)氏の次男として当地に生まれた。幼少の頃よりすでに覇気に富み、その性格は活発であったといいます。 地元小学校卒業後、宮城県立農学校に進学、卒業後1年間軍隊に入る。 明治30年(1897)、24歳で外務大臣榎本武揚氏のメキシコ移民計画に賛同。その移民募集に応じ同志30人とともにメキシコに移住した。 明治30年3月24日横浜を出発し、5月10日にメキシコに到着。国南端のアカコヤの村でコーヒーやトウモロコシの栽培に励み拓殖の第一歩を踏み出した。 その後、日墨協力会社を創立、徹底した協同組合方式の開拓を行った。彼の行動は正義を基本とし、日墨両国の幸福発展を計ったので、メキシコ国民からも非常に信頼を受け、日本からの多くの移民を引き受けたり日墨貿易株式会社を創設するなど、移民開拓の基礎を築き、榎本の夢を実現し、メキシコ移民の父と言われるまでになったが、昭和5年(1930)56歳で亡くなった。 なお、照井家は現在その孫の代になり手広く商店を経営し、商店の看板には同家の家紋を掲げているという。また、出発に際して記念樹を手植えし、それが現在でも十二丁目(南城地区)に残っているとも聞く。 榎本武揚のこと: 明治維新当時、彼は徳川幕府の要人で、北海道の五稜郭を拠点に広大な開拓を夢見ていたが、維新の戦いで艦隊を引き連れ仙台湾に停泊をしたとき、メキシコ人からハワイに亡命することを進言されたが、それを断り、五稜郭に立てこもったが、明治2年降伏した。その後も、彼は開拓の夢を捨てきれず外務大臣になったとき、メキシコに十万町歩の土地を求め、移民の募集をしたのである。 |