佐藤昌介博士の生涯
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佐藤昌介博士の生涯 ●1856年(安政3年)11月 盛岡藩士佐藤昌蔵の長男として花巻に誕生。幼名謙太郎。 藩学校の揆奮場に入学し、その能力を発揮した。漢学・国学・剣術・砲術・馬術などを学ぶ。特に馬術に優れ大坪流の達人であった。 ●1870年(明治3年) 14歳で藩校「作人舘」に入学、寄宿舎生活をした。学問が好きで、常に「今日学ざれば明日なし」という気持ちで取り組んだ。 ●1871年(明治4年)1月4日 15歳で郷里の先輩小笠原賢蔵塾に入り初めて英語・数学を学ぶ。さらに大学南校(現東京大学の前身)に進学。実用英語習得のため横浜修文館にも通う。経済事情で3年間花巻に戻る。 ●1874年(明治7年) 東京英語学校(後の東京大学の分身)に入学。優秀な成績で修了。 ●1877年、札幌農学校(現在の北大の前身)に進学。 私はクラーク博士の教えを受け、農学を修め、北海道の開拓事業の為に尽くしたいと思う。大学2年、校内演説会で「農学及び農学の開発」と題し弁じ第1位となる。このとき後輩の1年新渡戸稲造も第1位となる。 大学卒業後、4年間助手をする。この間、稲田邦植(くにたね)の妹ヤウと結婚。 ●1882年(明治15年)自費で渡米し、ジョーンズ・ホプキンス大学に留学。翌年から研究生となる。 ●1883年(明治16年)同校の教授アダムス博士より招かれる。 ●1886年(明治19年)31歳でドクトル・オブ・フィロソフィーの学位を受ける。同年、農学校教授となる。 ●1886年(明治19年)新渡戸稲造と広井勇を助教授に採用。工学科と伝習科を新設、兵学科を増設。 ●1890年(明治23年) 帝国議会は同校を廃校に決定。 ●1894年(明治27年) 38歳で校長。文部省に陳情し廃校を免れる。 ●1899年(明治32年) 日本で初めて新渡戸稲造らとともに農学博士を受ける。 ●1907年(明治40年) 総合大学設立にむけ準備。東北帝国大学農科大学に昇格。学長に就任。自らも講義し農政学の第一人者となる。 ●1913年(大正2年)日米交換教授として渡米。 ●1918年(大正7年)北海道帝国大学発足。初代総長になる。62歳。 ●1919年(大正8年) 医学部を増設。 ●1924年(大正13年) 工学部を増設。 ●1926年(大正15年)旭日大綬章を受ける。 ●1927年(昭和2年)72歳。 理学部を設置。総長を辞す。ここまで50年の歳月。北海道大学の父と呼ばれる。札幌市に「巌鷲寮」(がんじゅうりょう)を設立。東京に「北水社」を設立。学生たちの宿舎を供する。 ●1930年(昭和5年) 札幌市に住む。 ●1932年(昭和7年) 北海道農会会長に推挙される。以来会長を務める。 ●1937年(昭和12年)白内障手術。健康回復思わしくならず。 ●1939年(昭和14年)5月26日 花巻の義弟菊池!かん氏に誌、また5月30日に在京の共に「我将に世を去らんとする。感慨深し」のことばを送る。亡くなる2日目には北大総長を呼び北大の使命などを話し行く末を託す。 ●1939年(昭和14年)6月5日8時35分永眠す。 |
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参考 花巻ゆかりの偉人 佐藤 昌介 1856年11月〜1939年6月5日(昭和14年、花巻市) 新渡戸稲造はひとつ年下の後輩である。 島 善鄰 1889年8月27日〜1964年(昭和39年8月7日、花巻市矢沢村高木、75歳、元北大総長)は昌介の教え子である。 高村光太郎 1883年3月13日〜1956年4月2日、東京都中野、73歳) 宮沢賢治はあまりに有名です。 |