湯本中学校 校章・校歌 誕生物語


            〜湯本中学校創立五十周年記念誌「道」より〜

                         昭和22年〜昭和29年 湯本中学校在職 林弘さんのお話から

 私の教職生活は昭和22年4月。新制中学校の誕生と共にスタートした。終戦間もない当時の教育会はアメリカの軍政下にあり国民生活は経済的にも精神的にも疲弊しきったころである。
 青年学校の校舎と小学校の校舎一部を仕切って発足したものの、ないもの尽くしの中から先ず校章を作ることになった。職員一同、授業を終えて来ては思い思いの図柄を小黒板に描き、修正に修正を重ね出来上がったが今日に伝わる校章である。湯口中と類似しないよう苦労をした。
 23年、学校教育もだいぶ軌道に乗りかけてきた頃今度は校歌を作ろうということになり歌詞を広く一般市民から呼びかけた。しかし集まった歌詞はわずか数編、どうせ作るなら有名人に託し後世に残したいという宮沢吉太郎校長「その人選は俺がするから、お前は資料を書け」と言われ、湯本の四季を絵と文で7,8枚まとめた。年もだいぶ押し詰まったころ、作詞者は藤村作文学博士(国文学者、東大教授)作曲は武蔵野音楽学校長、福井直秋氏に決めたから教頭と二人で行って来いと出張を命ぜられた。当時は配給制で、日常の米も不足していたころの話である。おみやげにモチ米2斗位はあっただろうか、背中のリュックに詰め込み、両手にアズキ等持てるだけ持ってふたり夜行列車に乗り込んだ。幸い佐藤勇次郎教頭(疎開児童統導者)東京の地形に詳しく福井邸に無時到着した。いかめしい邸宅、熊の皮が敷かれた日本間に通された。資料に目を通し、しばし沈思していた先生は突然口を開き「ひき受けましょう、藤村博士は友人だから作詞は私の方から頼んでおきましょう。」と快諾された。作曲はこんなふうにします「今迄の校歌は荘重すぎて暗い、明るくて行進風のものがいい」と指先でテーブルをたたきメロディーを口ずさんでくれた。
 資料の中に、九條武子夫人の書いた和歌を入れた。「まろき山、みどり深々と いくへにも ここの出湯の 眺めすがしも」大正年間、故九條夫人は松雲閣に一泊している。「まろき山」は万寿山だろうか、小雨のけむる山のふもとから湯けむりが立つ光景一巾の墨絵を見るような風情がある。そのやまに発する激流は台川となって田園をうるおす。翌24年、他校の中学校に先がけて校歌は誕生した。声高々と歌ってくれた当時の子どもたちも今はもう還暦を過ぎている。
 帰郷の折、リュックに学生協仕入れのグローブを一杯つめこんで帰った。野球部がグローブを持つようになったものそのころである。私も若かったし、その余韻をかつて逍遥歌のつもりで書いたのが「はるけくのぞむ北上の・・・」の応援歌になっている。
 経済的にもめぐまれない貧しい時代だったが、当時の子どもたちはよく働いたし、よく勉強もした。そして明るく、くったくがないし目が輝いていた。瀬川理右ェ門さんが青年会長を務めていたころの話である。