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萬鉄五郎年譜

1885(明治18)年【当歳】

11月17日、岩手県東和賀郡十二ケ村(通称土沢)117番屋敷内宅(現・和賀郡東和町土沢8区30番地)に、父八十次郎(21歳、明治38年6月に自ら勝衛と改名)、母ナカ(20歳)の長男として生まれる。九人兄弟の長男であった。
萬鉄五郎の家系は、明和(年不詳)の頃、陸中国和賀郡下小山田村前田に菊池長四郎(文化11年11月12日没)という人が住み着き、後に土沢の八幡沢に移って百姓となったのが初代である。長四郎の子二代目長兵衛(嘉永3年9月15日没)は、遠野の市日の度に出向いて店を借り米を商って屋号を「八丁」と称し、後の大問屋の基礎をつくった。三代日の長兵衛(文政元年3月8日生、明治24年11月8日没)は、二代目長兵衛の娘佐登の婿養子で、明治初年から萬姓を名乗るようになった。四代目が鉄五郎の祖父の長次郎(旧姓平野)で、三代目長兵衛の長女もよの婿養子である。母ナカは四代目長次郎の長女で、父八十次郎(旧姓八重樫)は婿養子である。鉄五郎は、祖父長次郎の初孫にあたる。
土沢は、東北本線沿いの花巻から東へ向かい遠野を経て釜石に至る街道筋で、花巻から約10キロメートル、周囲を小高い山に囲まれた小さな盆地の中にある。盆地の南寄りには、やがて北上川に合流する猿ケ石川が流れ、街並は北側の丘に沿って東西に長く連なっている。鉄五郎が生まれた頃の土沢は、釜石からの海産物を花巻に運び、花巻付近の米を釜石に運ぶ回送問屋のある中継地であり、街道沿いに旅籠のある宿場町として栄えていた。この頃萬本家「八丁」は全盛期にあって、農海産物問屋を営む大地主として、同地方では指折りの多額納税者であった。

1887(明治20)年【2歳】

12月6日、従弟昌一郎(祖父長次郎の長男千代吉の長男、昭和18年4月9日没、享年55)生まれる。
同月16日、弟冨次郎(二男、昭和17年7月3日没、享年54)生まれる。

1888(明治21)年【3歳】

9月3日、伯父千代吉(母ナカの兄、文久元年1月9日生、享年27)死去。

1889(明治22)年【4歳】

4月1日、市町村制施行により、十ニケ村、安俵村、北成島村、東晴山村が統合され、十二鏑村となる。萬本家の住居表示は、東和賀郡十二鏑村大字十二ケ117番戸となる。

1890(明治23)年【5歳】

11月1日、日本鉄道会社(現・JR東日本東北本線)が一関から盛岡まで開通。

1891(明治24)年【6歳】

この頃、父八十次郎一家は、萬本家「八丁」の筋向い十二ケ174番戸に居住することになり、戸籍も同地に移すが(10月10日付)、鉄五郎は従弟昌一郎、弟冨次郎とともに、引き続き本家「八丁」の家族と暮らす。
10月29日、弟菊三(三男、後に泰一と改名、昭和51年9月18日没、享年84)生まれる。母ナカは、この頃から健康を害し、菊三も本家に引き取られて育てられる。
11月8日、曾祖父長兵衛(享年73)死去。

1892(明治25)年【7歳】

4月、土沢尋常小学校に入学。
この頃の鉄五郎は絵を好み、武者絵などに見入り、めったに戸外では遊ばない内気なおとなしい子供であったと伝えられる。

1893(明治26)年【8歳】

6月30日、母ナカ(慶応元年7月25日生、享年27)死去。実母を失った幼い兄弟は、ますます祖父長次郎と本家の家族に親しむようになる。
12月、父八十次郎が、十二鏑村大字安俵の多田シワ(多田栄太郎の二女、明治8年9月8日生)と再婚。

1896(明治29)年【11歳】

3月、土沢尋常小学校を卒業。
4月、土沢高等小学校に入学。同級に佐々木理平治(後の歌人小田嶋孤舟)がいた。

1897(明治30)年【12歳】

4月、東和賀郡、西和賀郡は廃され、統合再編されて和賀郡の名称に戻る。
9月17日、妹キヱ(長女)生まれる。

1899(明治32)年【14歳】

この頃、日本画を独習する。この年の年記のある「應翠先生筆 山水畫譜萬冩」と表紙書した粉本模写が残されている。一方落款作りにも熱中し、この頃作られた自刻印多数が残されている。
11月、和賀郡教育品展覧会(13-15日、黒沢尻尋常高等小学校)に出品。
12月2日、弟長治(四男)生まれる。

1900(明治33)年【15歳】

3月、土沢高等小学校を首席で卒業。中学への進学は、家長の祖父長次郎に許されず断念する。
祖父長次郎は、将来を期待した一人息子の千代吉に夭折されたため、初孫である鉄五郎と嫡孫昌一郎を手元から離すことを嫌い、当時貴重品であった写真機やヴァイオリンなどとともに必要な学用品はすべて買い与えて両名の歓心をかい、ついに進学を許さなかったと伝えられる。
鉄五郎は家にあって中学講義録などで勉強し、特に英語は慶応義塾普通部出身で土沢在住の菊池一郎について学習し、菊池とは以後親交が続いた。

1901(明治34)年【16歳】

この頃、新聞の広告で知った大下藤次郎著『水彩画之栞』(新声社、明治34年6月)を購読し、水彩画を始める。同書の末尾に通信による批評を受け付けるとの記載があったことから、鉄五郎もさっそく大下のもとに作品を送り指導を受けるようになるが、翌年10月大下の欧米旅行により中断する。
自宅学習のかたわら、水彩画を勉強する一方では、昌一郎とともに写真にも熱中し、また土沢で初めて購入されたという自転車をさかんに乗り回す。

1902(明治35)年【17歳】

4月1日、祖父長次郎(天保11年3月8日生、享年62)死去。かたくなに鉄五郎、昌一郎の進学を許さなかった祖父の死去にともない、二人は再び進学への志を強くする。また、萬本家はこの後、伯父千代吉の未亡人タダ(和賀都上小山田村[現・東和町]出身、旧姓伊藤、元治元年8月28日生、昭和19年12月12日没)が柱となって支えることとなる。

1903(明治36)年【18歳】

3月24日、進学希望を抱いて上京し、本郷区台町28番地(現・文京区本郷5丁目)の下宿屋北辰館に投宿する。
同月末、私立神田中学校三年への編入学が認められる。
4月7日、昌一郎が鉄五郎の後を追って上京。入学試験を受け、神田中学校二年への編入学が認められる。
6月16日、伯母タダが治療のため上京(7月8日に離京)。
同月21日、神田区駿河台袋町9番地(現・千代田区神田駿河台1丁目)の下宿屋貴臨館に転居。
7月、神田中学校での学期末試験を終えて、初めての夏休みに帰省。その後も夏冬の休みにはしばしば郷里に帰る。神田区錦町3丁目10番地にあった神田中学校はこの年12月末日で廃校となることが6月に決定しており、鉄五郎と昌一郎は、私立中学郁文館(後に郁文館中学校、現・郁文館高等学校)の三年と二年に、無試験編入学することになる。
9月5日、上京して本郷区駒込追分町(現・文京区向丘)の分家筋の萬清蔵方の下宿屋に入居。郁文館に通い始める。
10月6日、私立早稲田中学校(現・早稲田高等学校)三年に無試験編入学する。同じく、昌一郎は二年に編入学する。両名の早稲田中学入学時の保証人は、同郷(和賀郡中内村[現・東和町〕出身)の陸軍軍医青木重之助であった。早稲田中学時代の鉄五郎は、欠席が多く級友との交際も限られていたが、絵画への関心は強く、淡翆会という絵画同好会(後に美育部に発展)に加入し、写生会などに参加し、たびたび水彩画の展覧会を行う。また、水彩画家真野紀太郎をしばしば訪ね、作品の批評を受ける。
同月13日、牛込区矢来町1番地72号(現・新宿区矢来町)に転居。
秋、ヨーロッパから帰国した大下藤次郎を青梅仲町に訪ね、作品の批評を受ける。 
12月5日、東京府北豊島郡高田村411番地(現・豊島区高田)に転居。

1904(明治37)年【19歳】

1月9日、冬休みを郷里で過ごし、昌一郎とともに上京。
3月8日、弟勝四郎(五男、明治43年6月29日、6歳で没)生まれる。
この頃、すでに帰依していた伯母タダの勧めで、臨済宗円覚寺派の僧、釈輟翁宗活禅師(入沢譲四郎)が営む両忘会の禅道場両忘庵に昌一郎とともに参禅するようになる。
両忘庵は、後に谷中天王寺町に新築するが、当時はまだ日暮里村金杉にあり、庭に蓮池のある閑静な禅道場であった。ここで鉄五郎は「雲樵居士」、昌一郎は「荷舟居士」、タダは「恵泰禅子」と安名を授けられ、参禅者は互いに安名で呼び合っていた。初期の日本画にある「雲樵」の落款はこれにあたる。ここで後藤瑞巌(安名:宗碩、後に京都・妙心寺管長)、田子一民(安名:不識、盛岡市出身、後に衆議院議長)、久慈直太郎(安名:一舟、盛岡市出身、後に日本赤十字産院長)、掘合由己(盛岡市出身、後に弁護士、盛岡市長)、松岡忠一(花巻市出身、後に農学博士、東京高等農林学校長)、大澤久三(安名:風外、後に行田市足袋材料問屋を経営)らを知る。
秋頃、牛込区矢来町3番地山里甲36号(現・新宿区矢来町)に部屋数の多い一軒家を借りる。鉄五郎と昌一郎のほか、日露戦争に出征中の陸軍軍医青木重之助の夫人(松岡忠一の姉)など数名が同居。

1905(明治38)年【20歳】

この頃から、本郷区菊坂町にあった白馬会第二洋画研究所(通称菊坂研究所)に通い始め、長原孝太郎、小林鍾吉の指導を受ける。
春、弟菊三が早稲田中学の入学試験を受けるために上京し、牛込区矢来町の鉄五郎らの借家に同宿。
5月、箱根へ旅行。
6月、父八十次郎が勝衛と改名(19日付許可)。
9月18日、昌一郎が早稲田中学を退学。

1906(明治39)年【21歳】 

この頃、下谷区上根岸町117番地(現・台東区根岸2丁目)に居住。
3月、早稲田中学を卒業。
4月、早稲田大学高等予科に入学手続きを取る。
この年、宗活禅師による北米布教活動が計画され、後藤瑞巌、佐々木指月などの両忘会の信徒十数名が参加することになり、鉄五郎や昌一郎もこれに加わる。
5月17日、前年12月に渡航していた昌一郎の後を追い、宗活禅師の一行に先発して、横浜港から神奈川丸で出発する。アメリカ到着後まもなく、サンフランシスコ対岸のバークレーの米人家庭(住所はR34 Bonita ave. North Berkeley)にボーイとして住み込む。仕事のかたわら休日には、昌一郎や少し遅れてアメリカに着いた大澤久三(後に萬のパトロン的存在となる)と交遊する。
7月、早稲田大学高等予科への退学届の提出を、伯母タダに手紙で依頼する。
8目22日、宗活禅師の一行が、丹後丸で渡米の途につく。
9月、周辺に美術学校が無く、絵画の勉強ができない不満から、東部の美術学校に入学する計画を立て、三年間の学費の送金を伯母タダに手紙で依頼する。
同月、アメリカに着いた宗活禅師は、サンフランシスコ対岸、オークランドの近郊ヘーワードに10エーカー程の土地付きの家屋を求め、ここを本部として、同行の信徒十数名とともに禅宗北米両忘会を創設する。両忘会の目的は、土地を求めて農業をしながら、生活の安定の上に立って伝道を進めようとするものであったが、カリフォルニア地方一帯は4月18日のサンフランシスコ大地震以来、経済変動による物価高騰が続き、計画は失敗に終わる。
11月、アメリカでの絵画の勉強をあきらめ、昌一郎を残して帰国の途につく。15日中継地ホノルルに寄航。
なお、昌一郎は、翌年3月に帰国し、半年後の9月には早稲田中学に復学。
その後、慶応義塾大学理財科を卒業して土沢に戻り、地方財界の中心人物となった。
12月、再び菊坂研究所に通い始める。

1907(明治40)年【22歳】

3月31日、弟亀一郎(六男)生まれる。
4月、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科予備科に入学。同期に御厨純一、金沢重治、片多徳郎、山下鐵之輔、平井為成、熊岡美彦、斎藤知雄(素巌)、神津港人、井上清一、北島浅一、清原重一(重以知)、工藤三郎、栗原忠弐、佐藤哲三郎、清野善弥、高橋信、倉智亮三、山本静雄、江馬春吉、羽場金司、佐竹義立、戸田氏宣らがいた。
7月、青森県浅虫温泉へ旅行。
9月、東京美術学校西洋画科本科に入学。予備科修了試験合格者28人中、首位の成績であった。在学中、しばしば級長を務める真面目な反面、奇行が多く伝えられる。
10月、第11回白馬会展(6日-11月10日、上野公園・元東京勧業博覧会第二号館)に出品。

1909(明治42)年【24歳】

春、浜田よ志(明治21年5目15日生、淑子は通称)と結婚。媒酌人は、赤坂・溜池に開業していた医師赤坂善次(祖父長次郎の縁戚)であった。よ志は、浜田伝八・まさ夫妻の次女(戸籍上は四女)で、二人姉妹の姉は女医であった。浜田家は、もとは日本橋で琴の桐材などの取扱いを家業としていたが、当時は本郷区根津藍染町に在り、貸家を持ち、下宿業を営んでいた。浜田家に下宿していた萬をよ志の父が気に入り、結婚に至ったと言われる。結婚後、小石川区宮下町16番地(現・文京区千石3丁目29番)に新居を構える。
4月、第12回白馬会展(16日-5月12日赤坂・三会堂)に出品。

1910(明治43)年【25歳】

2月16日、長女フミ(後に登美と改名、とみ子、登美子は通称)が生まれる(戸籍簿記載は3月30日)。
5月、第13回白馬会展(10日-6月20日、上野・竹之台陳列館)に出品。

1911(明治44)年【26歳】

5月、アブサント同人小品展(20-21日、本郷帝大前・レストランパラダイス二階)に出品。同展には、二カ月前に夭折した青木繁の《自画像》《黄泉比良坂》も展示された。「アブサント」は、前年末に、東京美術学校在校生による文芸同好会として日本画科の広島新太郎(晃甫)、川路誠(柳虹)らが中心となって結成され、『アブサント小集』を発行していた。この会が発展して展覧会開催となったが、参加者には、萬のほかに同級の平井為成、山下鐵之輔らがいた。
7月28日、弟勝雄(七男、昭和2年2月13日、16歳で没)生まれる。
10月、岩手軽便鉄道会社(現・JR東日本釜石線)が創立され、萬本家はこれに出資し、主要株主の一人となる。

1912(明治45・大正元)年【27歳】

1月、巣鴨洋画展覧会(1-5日、巣鴨町・仰高尋常小学校)に出品。同展は、菊坂研究所とその後身である白馬会原町洋画研究所出身者が中心となり、萬のほかに松村巽、相馬甚一、金沢重治らが参加した。
3月、東京美術学校西洋画科本科卒業。卒業制作は《裸体美人》《自画像》(29・30の両日、東京美術学校日本画科教室で陳列)。29日の卒業式には、平井為成、山下鐵之輔とともに欠席し、画家の本道を貫く決意で教員免許状を受けなかった。卒業制作の評点は72点で、本科卒業生19名中16番。引き続き一年間ほど研究科に籍を置いた。
5月、山中恕亮主催美術展(1-7日、赤坂・三会堂)に出品。同展出品者の主体であった「原人会」は、前年3月8日に解散式をあげた白馬会研究所出身の青年画家たちによって、その年の3月22日に結成された団体であった。
同月、第1回雑草会展(15-19日、芝三田・統一キリスト教会)に出品。同会は、太平洋画会研究所出身の川上涼花、川村信雄、三並花弟らが主体となり、アブサント会同人の萬、平井為成、そして白馬会洋画研究所(葵橋研究所)にいた岸田劉生(ただし同展に出品せず)らが参加して結成された。
同月28日、父勝衛を戸主とする戸籍、岩手県和賀郡十二鏑村大字十二ケ174番戸を、東京府東京市小石川区宮下町16番地に転籍。翌年萬は短期現役志願兵として兵役についていることから、「入営は通常、本籍地に近い連隊に配属される」という思惑から本籍を東京に移したと思われる。
6月、雑誌『モザイク』主催第1回展(1-3日、本郷春木町・第一倶楽部)に出品。
同月、北虹会洋画展(第3回展、28日-7月2日、盛岡市・岩手県物産館)に出品。同会は、明治43年に五味清吉などの岩手県出身の洋画家が中心となって結成された岩手県内で最初の本格的な洋画団体で、毎年夏に盛岡市で展覧会を開いていた。
同月、盛岡市で発行されていた『岩手毎日新聞』に挿画を掲載し始める(28日初見)。同紙への挿画の寄稿は、以後社友として大正8年まで断続的に続けられた。
9月、斎藤與里、岸田劉生、清宮彬らの「ヒュウザン会」(後にフュウザン会と表記される)に、高村光太郎、植原桑喜代(久和代)、木村荘八、小島善太郎、山下鐵之輔、鈴木金平、小林徳三郎、平井為成、バーナード・リーチ、岡本帰一らとともに参加。
10月、第1回ヒュウザン会展(15日-11月3日、京橋・読売新聞社三階)に出品。
この頃、制作活動のかたわら、生活費を得るために、郷里から木炭を取り寄せて販売したり、また浅草の活動写真館の看板描きなどをする。また、夏頃には、池之端外国館で開かれた拓殖博覧会の台湾館の大壁画を、久米桂一郎、和田英作の監督のもとに小代為重が中心となって、近藤浩一路、田中良らと制作する。続いて冬にも、浅草六区で御厨純一らとともに青山熊治を中心とする海底旅行のマリオラマの制作に従事する。さらに、雑誌『文章世界』『太陽』に挿画を寄稿する。両雑誌への挿画の寄稿はともにこの年の12月号を初見とし、『文章世界』は大正9年7月号まで、『太陽』は大正10年6月号まで断続的に続けられた。
12月7日、父勝衛を戸主とする戸籍を、再び郷里の岩手県和賀郡十二鏑村大字十二ケ第25地割字北土沢165番地に転籍。

1913(大正2)年【28歳】

1月1日、『岩手毎日新聞』に初の画論ともいうべき「友人の批評に答える手紙」を寄稿。この頃、『読売新聞』や、友人の小田嶋孤舟が岩手県北の浄法寺村で発行していた文芸雑誌『曠野』に挿画を寄稿。
2月24日、短期現役志願兵として、北海道旭川の第七師団に入営するため、東京を離れる。
3月、輜重兵として第七大隊第二中隊に配属となり、三カ月間務める。ここで、師団のロシア語教官をしていた若きロシア文学者米川正夫を知る。
同月、第2回フュウザン会展(11-30日、京橋・読売新聞社三階)に出品。
5月25日、フュウザン会解散。
7月13日、除隊後約1カ月間各地をスケッチして歩いた後、この日東京に戻る。
8月、北虹会小品展(第4回展、6-9日、盛岡市・反響社)に出品。
9月、小林徳三郎に勧誘されて、島村抱月、松井須磨子によって結成された芸術座第一回公演(数寄屋橋際・旧有楽座)のメーテルリンク作「モンナ・ヴァンナ」三幕の舞台装置や電車用ポスターなどの製作に携わる。
10月6日、芸術座初演記念園遊会(目黒・エビスビール会社庭園)に出席。
同月25日、岩手軽便鉄道会社の花巻・土沢間が開通。

1914(大正3)年【29歳】

2月8日頃、土沢に一時帰省。
3月8日、土沢の知人たちに記念揮毫を求められたのを機に、土沢尋常高等小学校を会場にして、会費1円で、絹本画、画仙半紙画など70点を抽籖により配付する画会を開く。その後、同月下旬までに東京に戻る。
6月16日、長男博輔が生まれる(戸籍登載は7月20日)。
7月2日、義祖母ヒサ(安政4年7月27日生、享年56)死去。
同月、弟菊三が泰一と改名(8日付許可)。
9月5日、生活と制作上の理由から、家族をともない郷里土沢に帰る。土沢で萬は、本家「八丁」と街道を挟んで筋向いにあった倉庫を改造し、父の家族とは別に住む。ここに隣接したモダンな木造西洋館にアトリエを構える一方、電灯会社の代理店も営むが、店はほとんどよ志夫人にまかせ、制作に専念する。
同月、黄菊社展(14-15日、盛岡市・作人館)に出品。同展は、この夏に北虹会展が開催されなかったため、その代わりとして、五味清吉、清水七太郎などの地元出身の洋画家が中心となって開催した展覧会であった。

1915(大正4)年【30歳】

5月、第1回七光社展(23-26日、盛岡市・旧市役所)に出品。七光社は、この年の1月に盛岡市で中の橋洋画展覧会が開催された際、清水七太郎らが中心となり結成された団体で、市内の絵画同好者が出品した。
7月、第5回北虹会洋画展(2-10日、盛岡市・岩手県物産館南館)に出品。
同会は、大正2年に、会長を南部利淳伯爵とし、洋画のほかに、日本画、彫刻、工芸、図案などの岩手県出身の若い作家たちを網羅した団体「岩手北虹会」として組織の拡充が図られた。
9月18日、東京あるいは盛岡市で個展を開く計画をもち、同時に作品頒布のための画会を興すことも計画し、その準備のために上京。上京中、『岩手毎日新聞』(21-28日)に翻訳「ビンヨン氏の狩野派観」を7回にわたって連載する(Laurence Binyon“Japanese Art[The International Art Series]”1909′Londonの部分翻訳)。
10月初旬、画会の作品分配の際に抽籖により景品として会員に配付する予定の作品を、長原孝太郎、斎藤與里ら十数名の画家から寄贈され、土沢に帰る。その後、画会関係の用務のため盛岡市をたびたび訪れる。
11月、『岩手毎日新聞』に「萬鐵五郎画会」を告げる広告が掲載される(2日を初見とし、以後12月24日まで続く)。同紙に画会の規約等を伝える記事が掲載される(4日)。
この画会は、両忘庵での知己の一人、盛岡市在住の弁護士掘合由己が中心となって興したもので、肖像画、風景画、掛軸(山水)の三部に分かれ、会費10円(肖像画、風景画)、もしくは5円(掛軸)を大正4年11月から大正5年8月まで10カ月間分納(肖像画、風景画の部は1円ずつ10カ月分納、掛軸の部は50銭ずつ10カ月分納)することによって、満期時に作品を頒つもので、申込所は盛岡市本町の田口商店美術部とされていた。萬は、画会作品が完成した時点でそれらの作品による個展を盛岡市で開催し、その後に、それぞれの申込者に作品を頒布する計画であったが、作品制作の遅延などがあり、結局この個展は行われなかった。『萬鐵五郎画会会員台帳』(岩手県立博物館蔵)によれば、肖像画の部48人、風景画の部38人、掛軸の部77人の申込者(中途脱会者を含む)があった。

1916(大正5)年【31歳】

1月26日、家族とともに再び上京することになり、この日花巻から上野行の夜行列車で出発。翌朝上野駅に到着。家族を駅前旅館山城屋に休ませ、萬は上野桜木町18番地の転居先に行く。
同月28日、転居先が気に入らず、新婚時代を過ごした家の近く、小石川区宮下町18番地(現・文京区千石3丁目28番地)に居住することとする。もともと転居癖のある萬は、以後短時日のうちに、再三再四転居することになる。
2月5日、小石川区原町(番地不詳)へ転居。
4月24日、同区原町126番地(現・文京区白山4丁目7番)に転居。
5月3日、同区西原町1丁目八番地(同千石4丁目3番)に転居。家主は相場で成功した人で、萬の芸術には相当の関心をもち、大正7年に丸山町に転居するまで家賃は一銭も取らなかったという。
6月、武州飯能へ写生旅行。
9月初旬、「十二月色紙会」を興す。『十二月色紙会会員名簿』(岩手県立博物館蔵)によれば、この画会は、入会金五十銭、月々の会費1円で、毎月色紙を一枚ずつ頒布する画会であり、20人ほどの申込みがあった。
11月、第2回黒耀社美術工芸展(5-11日、銀座・玉木額縁店楼上)に出品。

1917(大正6)年【32歳】

4月、大正4年11月に興した画会の作品が大部分完成し、発起人掘合由己のもとに送られ、申込者への配付が始まる。しかし、その後の萬の病気、転居などにより最終的に未配付に終わった作品もあったようである。
5月、第5回七光社展(1-7日、盛岡市・岩手県物産館南館)に出品。
同月、第2回日本美術家協会展(5-27日、上野・竹之台陳列館)に土沢で制作した作品をまとめて出品。同会は、斎藤與里、斎藤五百枝、川上涼花、川村信雄、恩地孝四郎、硲伊之助、藤井達吉らの発起で、前年4月に結成された。第1回展(大正5年4月21-30日、赤坂・山田耕筰音楽堂)には、萬は参加の勧誘を受けたが出品しなかった。
8月中旬、土沢に一時帰省。
9月、第4回二科展(9-30日、上野・竹之台陳列館)に出品。「もたれて立つ人」など立体派風の萬の作品は、未来派風の東郷青児や神原泰の作品などとともに注目される。
同月、第4回院展洋画部(10-30日、上野・竹之台陳列館)に出品。
10月2日、次女馨子が生まれる。

1918(大正7)年【33歳】

春、小石川区丸山町11番地(現・文京区千石3丁目)に転居。
3月頃、盛岡市在住の書家・郷土史家の新渡戸仙岳に、日本画の雅号選定を依頼する。晩年の文人画に使われる「犂耳窩主」の落款印はこの時の依頼による。
4月、第5回日本水彩画会展(3-29日、上野・竹之台陳列館)に出品。
5月頃、土沢に一時帰省
9月、第5回院展洋画部(10-30日、上野・竹之台陳列館)に出品。
同月、第1回岩手県芸術品展(11-20日、盛岡市・岩手県物産館北館)に出品。
この年、昼間は友人たちの訪問が繁く、その応接や議論で費やされ、制作はもっぱら夜になることが続き、そのうえ児童雑誌の依頼による付録の考案に熱中し、そのため睡眠不足と過労が重なり、夏頃から体調を崩す。次第に神経衰弱気味となり、作品の制作ができなくなる。また、肺結核に罹患していることも判明する。
11月、神経衰弱と肺結核の療養に専念するため、資金的な援助を土沢の昌一郎に手紙で依頼する。
12月、治療を受け、体調は徐々に回復に向かう。

1919(大正8)年【34歳】

1月、第1回一月会展(10-17日、日本橋・白木屋)に出品。
同月、第1回創作版画協会展(20-24日、日本橋・三越呉服店)に出品。
2月、第16回太平洋画会展(4-27日、上野・竹之台陳列館)に出品。
3月13日、萬の病状を案じて、父勝衛が上京。
同月14日、転地療養のため、神奈川県茅ヶ崎で病気療養中の弟泰一のもとに一人で赴く。当時の茅ヶ崎は、結核療養所の南湖院があることで知られていたほか、別荘地としても発展していた。家族は、よ志夫人の両親と姉が住む兵庫県姫路市龍野町に、半年の間移転することになる。
春頃から長谷川如是閑主宰の総合雑誌『我等』に挿画を寄稿する。
5月、第2回岩手県芸術品展(21-30日、盛岡市・岩手県物産館)に出品。
9月、家族を姫路から呼び寄せ、神奈川県高座郡茅ヶ崎町茅ヶ崎4275番地、通称「茅ヶ崎天王山の木村別荘」(現・茅ヶ崎市南湖4丁目5番20号)で一緒に生活するようになる。木村別荘は、もとは医者が使っていた家であったが、近所に新築して越したので、その後を借り受けることとし、診療室であった板の間をアトリエにあてた。
同月、第6回二科展(1-30日、上野竹之台陳列館)に出品。林倭衛、東郷青児、鍋井克之とともに二科会会友に推挙される。

1920(大正9)年【35歳】

3月、「四十年社」の結成に参加し、発会式(23日、上野・精養軒)に出席。この会は、明治40年に東京美術学校西洋画科に入学した片多徳郎、金沢重治、野元義雄、神津港人、工藤三郎、浅井松彦、熊岡美彦、斎藤素厳(知雄)、佐藤哲三郎、北島浅一、清原重以知(重一)、三国久、御厨純一、萬の14名からなる。
同月、第1回四十年社展(26-4月3日、上野・東京美術学校倶楽部)に出品。
5月、長女フミを登美と改名(5日付許可)。
この年、大作の制作を予定していたが、赤痢にかかり中断する。

1921(大正10)【36歳】

春、大澤久三が静養のため茅ヶ崎に滞在していたので(1月頃から4月末頃まで)、しばしば訪ね、大澤所蔵の中山高陽などの日本画を鑑賞する。この頃から南画に傾倒する。
2月、第2回風国美術協会展(15-21日、日本橋・白木屋)に出品。
3月、第8回日本水彩画会展(1-25日、上野・竹之台陳列館)に出品。
5月、第2回四十年社展(18-27日、京橋・星製薬会社)に出品。
同月、第4回岩手県芸術品展(19-28日、盛岡市・岩手県物産館)に出品。
この頃、帝展に落選した《水浴する三人の女》150号の制作に取り掛かるが、モデルから「家族と一緒では仕事がしにくい」と言われたため、自宅から海岸よりの近くにあった農家の別棟を借り、アトリエにあて、毎日そこに通って制作する。
10月、第3回帝展に《水浴する三人の女》150号を搬入したが落選。「当落発表の前夜、友人から入選の報が届けられ、祝電さえきていたが、発表当日になると落選となっていた」という挿話が残されている。この作品は後に萬自身の手によって切断されたが、木炭や墨などによる下図数点によって作品の原形を知ることができる。また、裸婦のポーズが油彩、版画のモティーフとなって残されている。

1922(大正11)年【37歳】

1月8日、森田恒友が茅ヶ崎の萬宅を訪れ、新たに設立される春陽会への参加を勧誘する。春陽会は、小杉未醒(放庵)、山本鼎、長谷川昇、倉田白羊、足立源一郎、森田恒友の6名に、梅原龍三郎を加えたメンバーが発起人となり設立されることになったもので、萬は、森田の勧誘を受け入れ、岸田劉生、木村荘八、石井鶴三、中川一政、山崎省三らとともに客員として参加することになる。
同月14日、春陽会の発会披露の宴(本郷・燕楽軒)に出席する。翌年5月の第1回展までの間、会員、客員は二カ月に一度くらいの割合で会合を重ね、萬もその都度出席したものと思われる。
2月、第4回創作版画協会展(12-17日、日本橋・三越呉服店)に出品。
5月、第9回日本水彩画会展(12-19日、日本橋・三越呉服店)に出品。この時、同会の会員に推薦されるが、後に脱会。
同月、第5回岩手県芸術展(19-28日、盛岡市・岩手県商品陳列所)に出品。
同月、第3回四十年社展(23-31日、京橋・星製薬会社)に出品。
同月30日、春陽会の会合(鎌倉・小町園)に出席。
7月、萬鉄五郎日本画展(8-10日、小石川竹早町・野嶋煕正[康三]邸)を開催。この時、画会「鐵人会」を興す。この画会は萬の後援会的性格が強く、毎月の会費10円を12カ月間続けて納め(総計は120円となる)、満期時に作品を頒布しようとするものであった。『鉄人会名簿』(岩手県立博物館蔵)によれば、画会発足時の会員は、野嶋煕正、萬昌一郎ら10名である。
この頃、南画の研究を深め、美術雑誌を通じて、文学史家・文芸評論家本間久雄と、南画及び明治初期の南画家菅原白龍の芸術に関し論争を交わす。
9月15日、春陽会の会合(銀座・鴻の巣)に出席し、会合の席と帰りの汽車の中で岸田劉生と南画の話をする。
同月28日、岸田劉生宅を訪れ、沈石田と倪元路の作品を預ける。
12月、文房堂新築洋画展(25-31日、神田・文房堂)に出品。
『早稲田文学』に、この年の6月号から大正14年9月号まで、断続的に挿画を寄稿。

1923(大正12)年【38歳】

1月、画友小林徳三郎とともに円鳥会を結成。この会は、萬が前年の秋頃から結成の準備を進めていたもので、設立に参加した画家には、児島善三郎、林武、前田寛治、恩地孝四郎、松本弘二などの二科会の若い画家たち、後に一九三年協会、独立美術協会の設立に参加した画家たちが多く、萬の芸術に多少とも影響され、萬が素質を認めた若い画家たちの集団であった。
2月、第10回日本水彩画会展(1-27日、上野・竹之台陳列館)に出品。
4月、岩手県出身者を中心とした在京美術家の団体「北斗会」が結成され、会員となる。
同月29日、三女多津子が生まれる。
同月、第1回春陽会展の出品審査(30日-5月1日)に出席。春陽会は新聞雑誌の美術記者立会いの公開審査を行って話題となる。以後、春陽会展の出品審査には、大正15年の第四回展まで連続して出席する。
5月、第1回春陽会展(4-27日、上野・竹之台陳列館)に出品。
6月、第1回円鳥会展(1-10日、京橋・星製薬会社)に出品。
この頃から、原精一、森田勝、鳥海青児らが茅ヶ崎に萬の画室を訪ねるようになる。
9月1日、関東大震災を茅ヶ崎で経験する。
10月、第13回七光社展(6-15日、盛岡市・岩手県商品陳列所南館)に出品しようとするが、汽車の遅延により果たせず。
11月、春陽会の客員制廃止により、同会の会員となる。

1924(大正13)年【39歳】

3月、第11回日本水彩画会展(5-19日、上野・竹之台陳列館)に出品。
同月、第2回春陽会展(14-23日、日本橋・三越呉服店)に出品。
4月、第2回円鳥会展(10-16日、帝国ホテルホール)に出品。
5月、萬鐵五郎裸体十題木版画会を興す。この画会は、野嶋煕正、石原雅夫、山口久吉を世話人として、石原求龍堂を取扱所とした。
7月、鐵人邦画会(23-29日、京橋・村田画房)を開催。
8月、第1回湘南洋画会展(3-5日、平塚町・平塚小学校)に出品。
10月、萬鐵五郎氏作品展(25-31日、盛岡市・岩手県商品陳列所南館)を開催。同展は第14回七光社展(同会期、同所北館)に併設された展覧会であった。
11月、第3回円鳥会展(30-12月3日、上野・竹之台陳列館)出品。
12月、第4回四十年社展(10-17日、日本橋・丸善)に出品。

1925(大正14)年【40歳】

2月、第12回日本水彩画会展(1-27日、上野・竹之台陳列館)に出品。
3月、第3回春陽会展(6-29日、上野・竹之台陳列館)に出品。
7月、第2回湘南美術会展(27-31日、平塚町・平塚高等女学校)に出品。
9月、第5回四十年社展(3-7日、日本橋・三越ギャラリー)に出品。
この年の末頃から、長女登美が健康を害し、病床につく。

1926(大正15・昭和元)年【41歳】

2月、第4回春陽会展(26-3月21日、上野・竹之台陳列館)に出品。
3月、『マロニエ』主催諸家素描水彩展(20-27日、京橋・室内社画堂)に出品。
5月、聖徳太子奉賛展(1-6月10日、上野・東京府美術館)に出品。
6月、萬鉄五郎・秋田義一・小林徳三郎・虫明柏太・大森桃太郎五人展(3-9日、旭川・旭ビル)に出品。
9月、アルス美術叢書の中の一冊として、著書『文晃』がアルス社から刊行される。
同月、第6回四十年社展(24-28日、日本橋・三越ギャラリー)に出品。
同月末、郷里の十二鏑村大字十二ケにあった畑四畝24歩を28円で売却。
10月、第16回七光社展(5-11日、盛岡市・岩手県商品陳列所南館)に出品。
12月16日、前年暮より病床にあった長女登美(享年16)が膀胱結核のため自宅において死去。萬は非常に落胆し、この頃から精神的にもかなり疲労する。

1927(昭和2)年

2月、前年11月に死去した画友の虫明柏太(享年34)の遺作展(16-20日、日本橋・丸善)の発起人となり尽力する。
この頃から、健康がすぐれず床につくようになる。
4月、第5回春陽会展(22日-5月15日、上野・東京府美術館)に出品。
同月末、結核性気管支カタルから肺炎を併発。
5月1日、午前10時30分、神奈川県高座郡茅ヶ崎4275番地の自宅に於いて死去。享年41。
同月7日、東京府荏原郡品川町西品川(現在の東京都品川区西品川1丁目6番地)の日蓮正宗妙光寺において葬儀が行われ、同寺の墓所に埋葬される。諡号「法雅院霊鑑居士」。 

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