亀ケ森玄蕃の兜神

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ページ番号1008421  更新日 平成31年2月21日

亀ケ森玄蕃の兜神(亀ケ森村誌抄)

亀林山中興寺には、代々亀ヶ森氏の守護神として、信仰の篤かった丈一寸八分(約5.4センチ)の閻浮陀金(純金のこと)十一面観音が伝わっている。これには次のような言い伝えがある。
亀ヶ森図書の子である玄蕃も仏教を信奉し、父の護身仏であつた観音さまを引きつぎ、守り本尊として兜のなかに納め、肌身離さず奉持していた。主家・稗貫大和守に反乱し、稗貫の家臣である槻木下野守光治と矢沢左近春眞に攻められた時も、この兜を身につけて戦い山て部下を励まして戦った。その時、一時は危うくなったのであるが、勢いを盛り返してついに敵将の槻木下野守を討ち取ったため、敵は列をみだして逃げ去った。この戦いの後に、玄蕃が兜の観音さまを拝み見ると、光背の一方が欠けていた。これは玄蕃が危うい時に身代わりとなったため、村人たちは「身代わり観音」と呼んで、その霊験あらたかなることを称えた。
天正十八年(1590)主家・稗貫氏の没落とともに、玄蕃も領地を失ったが、南部に召し抱えられ、花巻在府を命じられた。玄蕃はここで一生を終えるが、このとき持参した観音は玄蕃の位牌とともに、雄山寺に納められた。亀ヶ森家の家老はこれを知って、毎日のようにお参りをしていたが、寄る年波には勝てず、この観音の木造座像を作り、堅く封印して実物と交換して雄山寺に納め、実物を自宅に安置して礼拝していた。その後、家老の家運が傾き、ついには花巻の質屋に手放されたという。
その質屋の主人も礼拝がおろそかになり、たびたび家族が病にかかることもあった。そのため、にわかにご祈祷を始めたが、祈祷師がいうには、「この家の内に有り難い仏像があるが、粗末にしているため病人が続出するのだ」
ということであった。しかし、この家には質草として多数の仏像があったため、どれがその仏像であるかはなかなか捜し出すことができなかつた。ある夜のこと、霊夢に観音さまが現われ、
「白分は十一面観音である。縁あって今はお前の家にいるが、やがては亀ヶ森村に帰りたいと思う」
とのお告げを述べた。一方、当時中興寺の住職であつた賢明禅師にも、ほとんど同様のお告げがあったのである。
そのころ、大迫の鍵惣という家に花巻から姑と嫁の二人が嫁いでいた。二人の婦人が花巻に帰って泊った時、この質屋の話を耳にして、中興寺の住職に知らせた。賢明禅師はこれを不思議に思い花巻の質屋に行き、その仏像を譲り受けたいと申し出た。質屋でもまた、そのために病人が続出しているため、かえってこっちでも譲り渡したいと話した。この時、その場で早速買い受けてくれればよかったのであるが、禅師は金を持って来なかったため、一旦はそのままにして亀ヶ森に帰った。
しかし、質屋はその後、この仏像が閻浮陀金という純金で作られていることを聞き
「三十両でなければ譲れませんな」
と態度を変えた。そのため、禅師はやむをえず、衣を質に入れたりして、金十五両を工面したが、残りの金は鍵惣の二人を始め、檀家のの有志に相談して何とか工面したという。
ついに、金三十両をもって質屋から譲り受けた。翌日、花巻より亀ヶ森まで観音さまを奉遷する際には、亀ヶ森の数百人の善男善女が花巻に行き、花巻の信者も多数参加してお供し、大行列で御詠歌を奉唱しながら中興寺に帰還した。これが、観音講の始まりであり、その後、本堂の東側にお堂を建立して観音さまを奉ったという。
観音詠歌
音にきく 玄蕃が森の中興寺
法を広むる あかつきの鐘
中興寺は、大正二年に本堂などの建物を火災で焼失し、その後大正十四年再建された。この時に、大工として活躍したのは、東和町の名工・小原樗山(ちょざん)で、特に向拝の竜の彫刻は樗山の代表作の一つと言えるものである。

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