花巻城本丸跡内容確認調査の結果をお知らせします(平成30年度・令和元年度)

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ページ番号1008666  更新日 令和6年3月7日

花巻市教育委員会では、平成30年度と令和元年度に花巻城本丸跡で内容確認のための発掘調査を実施しました。花巻城の本丸には、かつて本丸御殿が建っており、2年間にわたる調査でその遺構が確認できましたので紹介します。調査期間と調査面積は次のとおりです。

平成30年度:平成30年9月18日(火曜)から10月20日(土曜)まで、200平方メートル

令和元年度:令和元年9月24日(火曜)から11月7日(木曜)まで、275平方メートル

平成30年度の発掘調査の写真(東から)
平成30年度 発掘調査の様子(東から)
令和元年度の発掘調査の写真(東から)
令和元年度 発掘調査の様子(東から)

1 花巻城本丸の規模と施設について

花巻城は、盛岡藩の城の一つです。中世には鳥谷ヶ崎城(とやがさきじょう)と呼ばれ、当時花巻地方を支配していた稗貫(ひえぬき)氏の居城でした。花巻城の規模は、南北が最大約500メートル、東西は最大700メートルあります。面積は、約236,700平方メートルです。城には、本丸・二之丸・三之丸の3つの曲輪(くるわ)があり、周囲の外堀と内堀とで守りを固めています。このうち、本丸の規模は東西が約190メートル、南北が約90メートルで、面積は約10,000平方メートルです。西側には土橋で連結した小規模な曲輪である馬出(うまだし)が付属しています。馬出と本丸とをつなぐ土橋の南北両面には、野面積(のづらづみ)注1の石垣が構築されています。

本丸への入り口の門は2つあります。西側の入り口である西御門(にしごもん)は、本丸への正門です。構造は、発掘調査によって桁行(けたゆき)注2 6.4メートル、梁間(はりま)注3 5.6メートルの礎石建物(そせきたてもの)と判明しています。また、江戸時代末頃の絵図面によれば2階建ての切妻の櫓門(やぐらもん)注4 で、門扉は北側に面して開き、左右には石垣が接する枡形(ますがた)注5 を構成していたことが分かっています。南側の入り口は台所門(だいどころもん)と呼ばれ、花巻御給人(はなまきごきゅうにん)注6 の本丸への通用門でした。慶長5年(1600)に稗貫地方の旧勢力が花巻城に攻め込んだ際には、台所門の周辺で激しい攻防戦があったと伝えられています。

本丸の中央には御殿がありました。御殿では、近世初頭までは城主が生活していましたが、城代が任じられるようになってからは藩主御成りの際に使用されました。また、城代と花巻御給人が執務をしていました。文化7年(1810)の御殿平面図によると、部屋数は約40室があり、延べ床面積は1100平方メートル程度とみられます。

花巻城は、明治3年(1870)の段階で城内不要建物等の払い下げが行われ、明治6年(1873)には岩手県布令により城内建物・石垣・武具等が払い下げられ廃城となりました。この際に本丸御殿も解体されています。

注1 野面積(のづらづみ)とは、拾ってきたままの自然の石を積み上げたもの。ただし、多少削っている場合もある。

注2 桁行(けたゆき)とは、建物の長手方向のこと。

注3 梁間(はりま)とは、建物の短手方向のこと。

注4 櫓門(やぐらもん)とは、上に櫓を設置した二階建ての城門のこと。

注5 枡形(ますがた)とは、敵が城内に進入するのを遅らせるために設けられた四角い空間のこと。城門と一体になっている。

注6 御給人(ごきゅうにん)とは、盛岡藩武士のうちで、盛岡城下以外に在住するもののこと。

2 花巻城本丸に関する歴史的背景

花巻城本丸跡に関する歴史的背景についての画像

次に花巻城本丸に関する歴史的背景について確認します。文献史料によると、本丸部分には歴史的に見て何種類かの建物が存在していたことが分かります。発掘調査の結果を考える上でも重要な情報なので、ここで整理しておきます。

本丸部分には、かつて瑞興寺があったと伝えられています。天正19年(1591)に稗貫地方が南部氏の支配地となると、南部氏一族の北秀愛(きたひでちか)が8千石を知行して入城します。その際に瑞興寺は現在地の坂本町へ移ったと言われています。わざわざ寺を移動させたのですから、何らかの理由があったと考えられ、恐らく寺の跡地に建物が建てられたのではないかと推測できます。

次いで北秀愛の父である北松斎(きたしょうさい)が城主となった際、慶長14年(1609)に屋形を普請したとの記録があります。屋形とは一般に身分の高い人の屋敷のことを言うので、これが本丸内のこととすれば、2度目の建物となります。

そして文化6年(1809)に本丸御殿が大破したために工事が行われ、翌文化7年に工事が竣工したとの記録があります。これが3度目の建物であった可能性があります。これ以降に建替工事を行った記録は無いので、明治6年に解体された御殿はこの建物と考えられます。

なお、北松斎に次いで南部政直が城主のころ、盛んと花巻城内での整備が行われたらしく、記録はありませんが、本丸での何らかの建築が行われた可能性もあります。

3 発見された主な遺構

(1)集石遺構(しゅうせきいこう)

穴の内部に石が多量に入っている場所や、石が集中して検出された場所を「集石遺構」と呼びました。本丸御殿の土台跡とみられるものと、平面的な広がりを持ったものの2種類を確認しています。

本丸御殿の土台跡の集石

直径約1メートルから1.5メートルの円形ないし正方形気味の範囲に石が密集しているものです。類似する遺構は、本丸西御門跡や二之丸南御蔵跡でも発見されていることから、本丸御殿の土台跡とみられ、下の図のように建物礎石の下にある根固めの[栗石(ぐりいし)]のみが残ったものと考えられます。調査の結果、土台跡の集石遺構には、下部に土坑(穴のこと)を伴うものと伴わない可能性があるものの2つのタイプがあることが分かりました。

集石遺構のイメージ画像

[A類] 下部に土坑を伴うもの

土坑を掘り、その中に礫を入れているとみられるものです。集石の中央付近が落ち込んでいるものがあります。また、土坑の縁に白色粘土が入っているものがみられ、あらかじめ土坑の中に粘土を敷いて礫を固定していた可能性が考えられます。連続して分布する状況も確認されており、これらの芯々の間尺は約2メートルと均質です。

集石遺構の写真1
本丸御殿土台跡の集石。穴の中に石が入っている。平成30年調査。
集石遺構の写真2
本丸御殿土台跡の集石。穴の縁に白色粘土がみられる。令和元年調査。
集石遺構の写真3
連続的に分布する集石遺構。芯々の間隔は約2メートル。平成30年調査。
集石遺構の写真4
連続的に分布する集石遺構。芯々の間尺は約2メートル。令和元年調査。
[B類] 下部に土坑を伴わない可能性があるもの

集石の周囲に土坑の掘り込みが確認できないことから、単に礫を敷き並べている可能性が考えられるものです。下の写真のように、正方形気味に丁寧に石を並べ、上面の高さを平坦に整えているものも確認されています。

集石遺構の写真5
本丸御殿土台跡の集石。下部の土坑の掘り込みは見えない。令和元年調査。

平面的な広がりを持っている集石

令和元年度の調査で、長さ約8メートル×幅1.2メートルの範囲に分布する集石を確認しました。これは御殿の土台跡の集石と異なって、平面的な広がりを持っています。ここの石は、丁寧に敷き並べているわけではなく、大小様々な石が混じっており、上面を平坦に整えるということも見受けられません。ただし、集石の東辺部分が南北方向に直線的な分布を示しているので、何らかの設計に基づいて構築された遺構であると推測されます。

また、注目されるのは、集石の東側が遺構の希薄な空間となっていることです。現存する花巻城本丸御殿の絵図面によれば、御殿の建物内部には「圡間明地」(「中庭」とも)があったことが確認できます。これは、採光のために設けられた施設と考えられますが、検出された空間が圡間明地に相当すると仮定した場合、平面的に広がる集石部分は、いわゆる「雨落ちの石」(軒先からの雨垂れの部分)であったことも推測されます。少なくとも、建物の輪郭に沿う形で配置されたものである可能性は高いと考えられます。

平面的な集石と遺構の希薄な空間の写真
平面的な広がりを持つ集石と遺構の希薄な空間

(2)粘土入り土坑

 

明黄褐色の粘土が直径50センチメートルから70センチメートルほどの円形に検出されたものです。平成30年度の調査では、粘土の厚さは約30センチメートルで、ボウル状の穴に詰まっていることが分かりました。左下の写真の例では、粘土を中心として外側に黄褐色の砂礫土が同心円状に分布しています。砂礫部分と粘土とは一連の遺構と推測され、外周での直径は約1.5メートルあります。これは、御殿の土台跡の集石遺構とも同規模であることから、同じく土台跡である可能性があります。もしかすると、土台の礎石を抜き取った穴を粘土で埋め戻しているのかもしれません。

粘土入り土坑の写真

(3)整地層ー大規模な土木工事の形跡ー

花巻城の建築に関連して整地された地層です。公園芝生の下10センチメートル程度で検出され、本丸跡の全域に広がっているものと考えられます。

深掘り調査を行った結果、本丸跡は厚さ50センチメートルから80センチメートルの盛土で整地されていることが分かりました。大量の土の供給源は本丸周囲の堀で、掘削した土をかき上げて整地に使用したものと推測されます。恐らく、本丸南辺を巡る土塁の構築と同時に整地も行われたのでしょう。

整地層の下からは黒色の地層が確認され、16世紀末頃の瀬戸美濃産の灰釉皿(かいゆうざら)や中国福建省にある漳州窯(しょうしゅうよう)産の16世紀代の青花碗(せいかわん)が出土しています。これら遺物の時期からみて、この地層は鳥谷ヶ崎城時代以前の地層である可能性が高いと考えられます。

以上の調査結果から、中世城館である稗貫氏の鳥谷ヶ崎城から近世城郭としての花巻城への移行に伴い、盛土整地による大規模な土木工事が行われていたことが推測されます。

整地層の写真
整地層の調査状況

4 発見された主な遺物

陶磁器、瓦、和釘、寛永通宝が出土しています。陶磁器は、深掘り調査で出土した中世の鳥谷ヶ崎城時代のものが2点あります。近世の花巻城時代のものは、肥前産磁器・大堀相馬産陶器、東北地方産陶器などが出土しています。特に令和元年度の調査では、御殿の土台跡と考えられる浅い穴の中から19世紀中葉以降の時期の大堀相馬産[土瓶]が、ほぼ一個体出土しています。また、これと一緒に重なって、素焼きの[焜炉]とみられる陶器も出土しています。これらは時期からみて、花巻城が廃城になった明治6年以降に廃棄された遺物と考えられます。

瓦は、全て灰色の色調の[いぶし瓦]と呼ばれるものです。種類は、丸瓦と平瓦とがあり、城郭建築や寺社建築などにみられる本瓦葺の建物に使用されていたものです。出土点数が少ないため、本丸御殿に使われていたものか、あるいは本丸周辺の門や櫓に使われていたものか不明です。

和釘とは、軸の断面が四角形の日本古来の釘です。おそらく本丸御殿で使われていた釘が、解体の際に散乱したものと考えられます。

寛永通宝は、江戸時代にひろく流通していた貨幣の一つで、調査では1点出土しています。

発掘で出土した遺物の写真
出土遺物

5 調査のまとめ

(1)検出遺構について

本丸跡の現況では、御殿の礎石とみられるものは、わずか2箇所に確認できるのみでしたが、2ヶ年の発掘調査で本丸御殿の土台跡と考えられる集石遺構が多数検出され、遺跡が概ね良好な状態に保存されていることが判明しました。土台跡の集石は、東西方向に並んで検出された部分もあり、これらは本丸御殿の東西柱列に相当すると考えられます。

また、令和元年度の調査では、平面的な広がりを持つ集石遺構が検出されました。これは、東西の幅1.2メートル×南北の長さ約8メートルの規模を持ち、南北方向に直線的な分布を示しており、本丸御殿の雨落ちに相当するものと推測しています。この集石の東側は、ほぼ遺構がみられない空間となっており、現存する本丸御殿絵図に描かれた「圡間明地」「中庭」に相当するものではないかと考えられます。

花巻城跡の本丸が、厚い盛り土による整地層に覆われていたことが分かったのも大きな成果として挙げられます。盛土の下には黒色の地層が確認され、中世の中国産青花や瀬戸美濃産陶器が出土することから、これは鳥谷ヶ崎城時代の地層と考えられます。つまり、花巻城築城にあたり大規模な盛土工事が行われ、鳥谷ヶ崎城時代の地面を覆い尽くしていると考えられるのです。

(2)出土遺物について

本丸御殿では、ある程度の量の陶磁器類を使用していたものと考えられますが、出土遺物の点数は決して多いわけではありません。これは、陶磁器類の多くが明治の民間払下げの際に処分されたためではなかったでしょうか。しかしながら、調査では時代がはっきりと分かる陶磁器が出土していますし、屋根瓦や和釘などの建築物に関係した遺物もあり、内容としては良質であると言えます。

(3)今後の課題について

発掘調査結果と複数現存している本丸御殿の絵図面とを比較してみても、発掘面積が狭いことが要因となり、建物のどの部分が発見されているのか、まだ確定できません。しかし、花巻御給人であった松川家に伝わる御殿絵図が、発掘結果に適合するようであり、最終的な御殿の姿を示している可能性がうかがえます。いずれ、絵図面と発掘成果との対比については、今後の発掘調査に検証を委ねたいと思います。

花巻城跡発掘調査の遺構配置図
平成30年度・令和元年度 花巻城跡内容確認調査 遺構配置図

周辺地図

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