花巻城本丸跡内容確認調査の結果をお知らせします(令和5年度)

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ページ番号1021003  更新日 令和6年3月13日

花巻市教育委員会では、平成30年度から花巻城本丸跡で発掘調査を実施しています。この調査の目的は、かつて本丸に存在した「本丸御殿」の遺構を確認し、その建物位置や規模などを明らかにしようとするものです。

令和5年度は5回目の発掘調査となり、本丸御殿の遺構が良好に残存していることが確認できました(過去の調査結果は下記のリンクをご覧ください)。

花巻城は、北上川と豊沢川によって形成された河岸段丘上に築かれ、平山城に分類されます。標高は85m程度です。城の北・東・南は、標高差約15mの急な崖地形となっているうえ、北側は北上川(後に瀬川)が外堀の役目を果たす自然地形を生かした天然の要害です。

城は外堀と内堀によって、[本丸]・[二之丸]・[三之丸]の3つの曲輪(郭)に区画されます。最北部分に本丸が置かれ、本丸の南側と西側の二方を二之丸が囲み、さらに南側に三之丸が囲む梯郭式(ていかくしき)の縄張りです。

花巻城の縄張図
花巻城縄張図(現況)

花巻城の本丸御殿は盛岡藩主の御成りの場であり、盛岡藩の行政拠点でもありました。

下に示した絵図面は花巻御給人である松川家に所蔵されていた「本丸御殿図」です。本丸御殿の絵図面は複数種類が現存していますが、これはそのうちでも発掘調査の結果とよく適合すると考えられるものです。建物の桁方向(建物の長手方向)が途中で屈曲しているのが特徴で、御殿の改築が窺えます。

これによれば、本丸御殿の構造は、大きく西棟と東棟とに分けられ、両者の間には渡り廊下が存在していることが確認できます。

松川家に伝わる本丸御殿の絵図面です
松川家「本丸御殿図」(加筆)

今年度の発掘調査区は、御殿東棟建物の北辺部及び西辺部と推定される位置に設定しました。本丸御殿の東棟は、台所施設があった建物です。

また、本丸北辺部の外郭遺構と南辺部の土塁の残存状況を確認するため、トレンチ調査も合わせて実施しました。

調査期間と面積は次のとおりです。

令和5年9月1日(金曜)~11月30日(木曜)、232.85平方メートル

次の図は、本丸でのこれまでの発掘調査位置を現況地形図に合成して示したものです。このうち、赤枠内が今年度の調査区です。

花巻城本丸跡でこれまでに発掘調査を行った場所を示した図
本丸における発掘調査位置図
令和5年度の花巻城本丸の東側から見た空中写真
令和5年度 調査区 空中写真(東から)
令和5年度の花巻城本丸跡発掘調査区を真上から撮影した空中写真
令和5年度 調査区 直上空中写真(写真上が北方向)

1 遺構調査の結果

(1)試掘調査の実施について

昨年度の調査で、「本丸御殿東棟一帯が公園造成の厚い盛土で覆われているらしい」、ということが分かりました。そこで今回の調査では、御殿の遺構や遺物はどの深さで発見されるのか、また公園造成の盛土はどの程度の厚さなのかを確実に把握するため、最初に試掘を実施しました。

御殿東棟の遺構を覆っている土が、最近の盛土であると確認できれば、これは無条件に重機で除去することが可能です。あるいは、複数時期の遺構が上下に重なっていたり、遺物を含んでいる堆積層が存在していたりすることも想定されるので、慎重な確認作業が必要だったのです。

試掘の結果、芝生面から約40センチメートル下まではガラス瓶やプルタブ、瓶の金属キャップなどの現代ゴミを含んだ盛土であることが確認されました。また、盛土の下には5~10センチメートル程度の厚さで黒褐色土が堆積しており、この層に花巻城時代の遺物が含まれていることも確認されました。

これにより、現代の盛土は重機によって一度に除去し、その下の黒褐色土は人力により掘り下げ、遺物を収集することとしました。その後、黒褐色土の除去後に本丸御殿の遺構が検出されています。

(2)本丸御殿 東棟の遺構について

礎石建物跡〔坪地業〕について

本丸御殿の基礎部分の遺構について、これまでは「集石遺構」あるいは「土台跡」と呼んでいましたが、今年度より「坪地業(つぼじぎょう)」と呼称することにしました。

「坪地業」とは、〔礎石据え付けの掘り方〕を示す言葉です。具体的には、「単一の礎石を置くために行われた地盤の基礎工事跡」を意味し、「坪」は一つの礎石が置かれる場所を、「地業」は地盤に施される基礎工事部分を指しています。

本丸御殿の基礎の遺構写真
本丸御殿 東棟跡 坪地業分布状況(北から)

今年度の調査で確認した本丸御殿の坪地業は、過去に本丸御殿西棟で確認された遺構と同様の特徴を示しています。これらは、直径約50センチメートル~1mの円形の範囲に礫が密集したものです。

昨年度の調査によれば、深さ20~30センチメートル程度のボウル状の土坑内部に礫が充填されているものと確認されています。そして、坪地業の上には礎石が載っていたものと考えられます。

坪地業同士の間隔は、芯々で計測すると約1.97m(6尺5寸)と確認されました。

本丸御殿の基礎の遺構

次の写真は、礎石が残っていた事例です。礎石の下を掘ると、土坑の内部に礫が充填されていることが確認されました。

このような礫の充填は、重い礎石の沈下を防止し、しっかりと固定するために行われたものと考えられます。

本丸御殿の基礎の礎石

次の写真の坪地業は、掘り方の中央付近に円形のピットが確認されたものです。

掘り方全体の規模が直径1.0~1.3m程度であるのに対し、中央のピット部分は直径が45~50センチメートル程度です。

ピットの深さは約20~30センチメートルで、周囲の掘り方部分とは異なり、埋土中に大きい礫の混入はありません。また、柱痕跡が確認できないことから、柱穴ではないとみられます。

すると、坪地業の中央に存在するピットとして想定できるのは、「礎石抜き取り跡」です。本丸御殿が解体された後に礎石が外され、陥没した場所を埋めた跡と考えられます。

本丸御殿の礎石を抜き取った跡

掘立柱建物跡〔ピット群〕について

調査区の東端部付近で、約1.97m(6尺5寸)間隔で直線的に並ぶ4基のピットが検出されました。

これらは直径約50センチメートルの円形を呈し、深さは30~50センチメートル程度です。埋土には拳大の礫が多量に入っていました。

本丸御殿内の掘立柱建物跡

次の図は、松川家の本丸御殿絵図の東棟部分を拡大したものです。青色の枠線は、発掘調査範囲を示しています。

この中で4基のピットの位置は、黄色の枠で囲った部分に当たります。絵図面には、ここを【下御廊下】だと書いており、ピットは【下御廊下】北辺部の遺構の可能性が高いと考えられます。つまり、建物の柱穴ということです。

上述した建物基礎の坪地業は、絵図面の【御臺所】と【土間】で確認しているので、この部分は礎石建物だったと考えられます。これに【下御廊下】部分の掘立柱建物が付随していたものとみられます。

松川家絵図面とピット検出位置の関係を示した図
松川家絵図面とピット検出位置の関係

御殿建物遺構の重複関係について

本丸御殿の遺構である坪地業やピットの分布状況をみると、時期の異なる二つのグループが存在することが分かりました。

次の図は、その二つグループをA群とB群とに分けて示したものです。

本丸御殿の遺構を種類ごとに分類した図
本丸御殿遺構分類図

A群は、赤色で示したグループです。

  • 建物の南北軸が座標北に対してやや西偏しています。この分布状況は、松川家絵図の建物と同じ方向性を示しています。
  • このグループより新しい時期の御殿の遺構が存在していないことから、東棟における最終形態だと考えられます。

B群は、紫色で示したグループです。

  • A群の配列に一致せず、A群の坪地業に近接して検出されるなど、明らかに別時期の建物の遺構と考えられるグループです。
  • A群とは分布の方向性も異なっており、建物の南北軸が座標北を向いていた可能性があります。

A群とB群の新旧関係は、遺構の切り合い関係からもA群が新しいことが確認されています。

次の写真は、2基の坪地業が重複している状況です。上がA群の坪地業、下がB群の坪地業です。このように、A群の坪地業がB群に切り込んでいます。

すなわち、本丸御殿東棟においては、少なくとも2時期の礎石建物の遺構が存在しており、B群建物からA群建物へと建て替えや改築が行われていたことがわかりました。

重なり合って発見された本丸御殿の基礎の遺構
坪地業の重複状況(南から)

(3)溝跡について

調査区の北西部で確認しました。溝の底面は、南から北に向かって緩やかに傾斜し、北端は調査区外へと延びています。

溝の内部には石が入っており、特に南端部では丁寧に並べています。規模は、長さ約4m×幅約0.5mで、深さは約10センチメートル程度です。

溝跡の検出位置は、前述したA群建物の西辺部、軒下付近に当たります。また、A群建物の南北軸に平行して延びています。これらのことから、この溝跡はA群建物に伴う遺構の可能性があり、[雨落ち溝]ないしは[排水施設]としての性格が推測されます。排水溝だとすれば、北端部は段丘崖付近まで続いていることも考えられます。

遺物は、内部から和釘が僅かに出土したのみでした。

溝跡の全体の写真
溝跡 全景(南東から)

(4)土坑について

調査区の南西部で1基確認しました。平面形は、南北方向に長軸を持つ楕円形です。断面形は、底面が平坦で、壁は直立気味に立ち上がっています。

規模は、開口部が長軸2.5m×短軸1.1mで、深さは約70センチメートルです。底面は、長軸2.1m×短軸1.1mの楕円形です。

埋土は、粘土ブロックが多量に混入するなど、人為堆積の様相を呈しています。

当遺構の南北軸方向は、御殿東棟のA群建物の南北軸方向とは揃っていません。このことから、A群建物とは別時期の遺構だと考えられますが、詳しい時期や性格は不明です。

土坑に埋まっていた土の断面写真
土坑 埋土 土層断面(東から)

(5)本丸北辺部の調査結果について

花巻城のいくつかの絵図面には、西御門から菱櫓にかけて、本丸北辺部に矢狭間のある塀が描かれています。また、『花巻城代日誌』によれば、天保年間の史料には、西御門脇の石垣上に「太鼓塀」が存在したことが記されています。したがって、西御門から本丸北辺へと連続する塀は太鼓塀だった可能性があります。

今回の調査では、本丸北辺部の段丘崖近くに試掘坑を設定し、太鼓塀の遺構の有無を調査しました。その結果、現在の地面から約80センチメートル下が花巻城時代の地盤(整地層の最上面)と判断されました。つまり、本丸の北辺部分も公園造成の盛土で厚く覆われていたのです。

残念ながら、今回は太鼓塀の遺構を確認することはできませんでした。ただし、遺構が盛土に覆われて保護されていることも考えられるため、将来の調査で塀の痕跡が確認できるかもしれません。

本丸北辺部の発掘状況の写真

(6)本丸南辺部の土塁について

本丸御殿東棟の調査エリアの南側2ヶ所で、本丸南辺部を巡る土塁の試掘調査を実施しました。

本丸南辺の土塁は、台所門跡から西御門跡にかけての西半部は良好な残存状況にあります。一方で、台所門跡から菱櫓跡にかけての東半部は高さが低いため、一見残存状況が不良に思われます。

しかし、昨年度の調査結果によれば、本丸の東側一帯が公園造成の盛土で覆われており、花巻城本来の地盤は、現在よりも地下深い位置に存在する可能性が示唆されていました。

つまり、台所門跡より東側の土塁は、現在の見た目よりもっと深い位置から構築されている可能性があると推測されたのです。

本丸南辺の土塁を調査した場所を示す図
南辺土塁トレンチ位置図

試掘の結果、土塁の北側の根元部分は、御殿跡と同様に公園造成の盛土に覆われていることが確認されました。

本来の土塁の姿は、現在の見た目とは異なり、しっかりとした高さを持つものだったのです。土塁は、最大で約1.5mの高さがあることが分かりました。

もう一つ注目される発見がありました。本丸御殿の構築面と土塁との間に側溝状の落ち込みが確認されたのです。

この落ち込みは、排水溝ではないかと考えています。よく観察すると、御殿構築面は落ち込みに向かって緩やかに傾斜しているので、雨水は自然と落ち込みに集まります。また、土塁に降った雨水も根元の落ち込みに流れます。

御殿や土塁から雨水をこの落ち込みに流入させ、堀や崖下に排出するための施設だったと推測されます。

本丸南辺の土塁の調査状況写真

(7)構築面の高低差や起伏について

御殿構築面の東西での高低差

昨年度の調査で、本丸御殿西棟と東棟とでは、建物構築面に高低差が存在することが確認されていました。

今年度の調査により、この高低差が確実に捉えられました。つまり、西棟が建っていた平坦面と東棟が建っていた平坦面とでは約40センチメートルの高低差があり、西棟の位置が高いことが明らかになりました。そして、両棟の間は急な段差となっています。

なお、松川家の本丸御殿絵図などによれば、御殿西棟と東棟は渡り廊下で連結していたことが分かります。

今回の調査で、渡り廊下に当たると考えられる場所が小山状に高くなっていることが確認されました。東西の高低差に対応した工夫の可能性も考えられます。

本丸御殿の構築面で観察された地面の起伏を示す図

御殿跡から南北両側への緩やかな傾斜地形

次の図は、本丸北辺部から南辺部土塁にかけての縦断図です。

これによれば、御殿東棟部分から北側の段丘崖に向かって、また反対側の南辺土塁に向かって緩やかな下り傾斜が付けられていることが分かります。北側の段丘縁辺や南辺の土塁裾付近と比較して、御殿東棟部分が約40センチメートル高い位置に存在していることが確認されました。

御殿建物周辺の下り傾斜は、西棟の北辺付近や南西隅付近でも確認されています。つまり、本丸御殿の建物周辺部には、西棟・東棟ともに全体的に下り傾斜の整地が施されていたと考えられるのです。

このような、本丸御殿建築に際しての地盤整備の工夫の目的は、やはり雨水対策にあったと推測されます。南辺土塁の根元で確認された落ち込みが、御殿や土塁から流入する雨水を排水する施設だとすれば、御殿周りに施された勾配と併せて効果的だったと考えられます。

本丸の南北方向の縦断面図

(8)整地層について

鳥谷崎城を改修して花巻城が築城された際、大規模な土木工事が実施されたことが平成30年からの発掘調査で分かってきました。

鳥谷崎城の地面の上に大量の土砂を盛土し、花巻城が造られているのです。その造成土を「整地層」と呼んでいますが、その厚さや堆積状況を確認するための深掘りを行いました。

次の写真は、本丸御殿の構築面からさらに深掘りを実施した状況です。御殿構築面から自然堆積層(粘土層)に至るまで、約1.5mの深さがありました。

構築面の下層には、粘土ブロックを多量に含んだ褐灰色土層や褐色の砂礫土層が比較的厚くみられます。これが花巻城築城の整地層です。トレンチの最下層には粘性の強い黒褐色土が確認されており、過去の深掘りとの比較から、鳥谷崎城時代以前の堆積層と考えられます。この層は約20~40センチメートルの厚さがあります。

つまり、花巻城築城に関係する整地層は、御殿の構築面からトレンチ最下層の黒褐色土上面まで、約1.0~1.3mの層厚だと考えられるのです。整地に用いた大量の土砂は、本丸周辺の堀を掘削した土を盛ったものではないかと推測されます。

本丸の整地を掘り下げて深さを確認した状況写真
調査区北辺部 深掘り断面(南から)※御殿検出面から整地層を掘り下げ

2 出土遺物

(1)陶器

中世は、美濃産の無地志野の丸皿があります。年代は16世紀末で、長石釉を施しています。近世は、美濃産擂鉢、肥前産擂鉢・鉢、大堀相馬産の腰錆碗、在地産の鉢・甕などが出土しました。

(2)磁器

中世は、16世紀代の中国産の青花皿の破片があります。また、肥前産の染付や青磁は、17世紀末以降に大量に流通したものが出土しています。

本丸跡から出土した陶磁器の写真

(3)古銭

58点出土しました。

内訳は、宋銭の景徳元寳(けいとくげんぽう)1点、宋銭の祥符元寳(しょうふげんぽう)1点、政和通寳(せいわつうほう)1点、明銭の永樂通寳(えいらくつうほう)10点。

近世は、寛永通寳(かんえいつうほう)17点です。

その他は28点で、腐蝕や変形が著しく文字の判読不可能なもの、または小破片です。

宋銭と明銭は、文字の輪郭が潰れて明瞭ではないため、鐚銭が多いとみられます。

本丸跡で出土した古銭の拓本
出土古銭

(4)瓦

本瓦葺きの屋根瓦が出土しており、全て灰色の色調を呈する「燻し瓦」です。種類は、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦がありました。

今回の調査で、本丸では初となる瓦当文様が向鶴文の軒丸瓦が1点出土しました。

この文様は、盛岡城で同様のものが出土しており、「筆羽双鶴文(ふでばねそうかくもん)」と呼ばれています。盛岡城の調査によれば、17世紀中葉~後葉の瓦とされているので、比較的古い時期の瓦ですが、割れなければ長く使用され続けていたことも考えられます。

この年代観に従えば、花巻城本丸では、南部政直が城主だった時期(慶長18〈1613〉~寛永元〈1624〉)よりも後に御殿の改修が行われ、この種の軒丸瓦が用いられたことになったと考えられます。

なお、花巻城では、筆羽双鶴文の軒丸瓦が、三之丸武家屋敷の井戸跡からも出土したことがあります。また、三之丸では連珠三巴文(れんじゅみつどもえもん)の軒丸瓦の出土例もあり、これは盛岡城の調査成果によれば16世紀末~17世紀前葉の時期の軒丸瓦だと考えられています。そうすると、花巻城における屋根瓦の使用は、鳥谷崎城を改築して花巻城を築城した当初にまで遡るとみられるのです。

本丸跡で出土した向鶴文を持つ瓦の写真
花巻城本丸御殿跡出土 向鶴文軒丸瓦

軒平瓦は瓦当が2点出土しました。小破片であり、詳細な時期や文様展開は不明です。

平瓦と丸瓦は、全て破片の状態で出土しています。

このうち、下の写真のとおり調査区の北西隅付近で主として平瓦がまとまって出土しました。この瓦には、表面から剥離して小破片となったものが多数みられます。

微細な破片を生じた要因としては、炎熱による「焼けはじけ」、あるいは冬季に瓦に染み込んだ水が凍結膨張して剥離したか、その何れかと考えられますが、熱を受けた形跡は無く、後者の可能性が高いとみられます。

出土状況からみると、御殿構築面での出土であり、なおかつ瓦個々の形状を保ったまま出土しているため、本丸御殿の解体時に屋根から落とされた瓦がそのまま放置されたものであった可能性もあります。

いずれ、屋根にあった当時から剥離を生じていたのでは、このような出土状況は考えられないので、地面に落ちた後に水を含んで破損したものと考えられます。

本丸御殿の屋根瓦がまとまって出土した状況の写真
調査区北西部 瓦出土状況

瓦の出土量は例年よりも多い傾向にあり、本丸御殿跡の西から東まで広く出土することが確認されました。

ただし、今もって本丸御殿全体が瓦葺きだったとするには絶対量が少ないと言わざるを得ません。

(5)金属製品

煙管(キセル)は、破片も含め9点出土しました。火皿~雁首部分と吸口部分があり、この両者をつなぐ部分の[羅宇(らう)]は出土していません。緑青を生じているので、銅製か真鍮製とみられます。

和釘は、本丸御殿解体時に部材から抜かれたものとみられ、ほとんどが曲がっています。

(6)石製品

粘板岩の硯の破片が2点、碁石とみられるものが1点出土しています。

(7)動物遺存体(魚骨・獣骨ないし鳥骨・貝殻)

魚骨には比較的大きい魚の脊椎骨(背骨)が含まれています。

貝類のうち、内面に真珠層を形成しているものは、貝殻の「波状のひだ」からみてアワビだと考えられます。

動物遺存体の出土は、本丸初で、全て御殿構築面直上の黒褐色土層中に含まれていたものです。この層には上記(1)~(6)の遺物が含まれていたことからみて、これらの動物遺存体もまた、近世の遺物である可能性が高いと考えられます。

「台所」からの出土であるため、食事か料理の残滓だった可能性があります。

本丸跡で出土した金属製品、硯、獣骨、魚介の写真

3 発掘成果と絵図面との比較―御殿間取りの検討―

平成30年度以来、5回の発掘調査によって本丸御殿の西端部から東棟まで、遺構が連続的に分布することが確認できました。発掘調査を通して本丸御殿の平面形態や間取りについて明らかになったことは、次のとおりです。

  • 遺構の残存状況や重複関係からみて、本丸御殿の最終形態は、松川家の御殿絵図の形態だと考えられる。すなわち、御殿の棟方向が西棟の途中から屈曲していた。
  • 御殿の最終形態における坪地業の間尺は、西棟・東棟ともに芯々で計測して、6尺5寸(1.97m)を基本としている。
  • 最終形態に至る前の旧段階の礎石建物については、間取りは判然としないものの、遺構が散在的に確認できる。坪地業の分布からみて西棟側で少なくとも2期の変遷がある。東棟側でも2期の変遷があった。

次の図は、冒頭に掲げた松川家の御殿絵図に則って、5か年分の遺構配置図に間取り線を引いたものです。

遺構の分布が良好な西棟西辺部および西棟東辺部並びに東棟部分は、間取りの推定が可能な状況です。

一方、西棟の中央付近から東半部にかけては、遺構の残存状況が不良で、なおかつ未調査範囲も広く、未だ推定が困難と言わざるを得ません。

発掘調査結果によって本丸御殿の間取りを推定した図
本丸御殿間取り比定図

とはいえ、以下のとおり鳥谷崎城時代から花巻城の築城、そして廃城に至るまで、本丸一帯がどのような経過を辿ったのかというストーリーを垣間見ることができるようになったのは、重要な成果と言って良いのではないでしょうか。

  • 鳥谷崎城時代の地面を大規模な盛土で覆い、花巻城が築城され、初期の本丸御殿が建つ。
  • 本丸御殿は礎石建物であったことが確認されており、複数回の改築が行われていた。
  • 本丸内には、本丸御殿であるかどうかは不明確ながら、17世紀中頃に向鶴文の軒丸瓦を使用した建物が出現したと考えられる。
  • 本丸御殿は、最終的には松川家絵図の形態になり幕末まで存続した。

4 今年度調査のまとめ

本丸御殿東棟を本格的に発掘したのは、今回が最初です。その結果、ほぼ予想した通りの位置に東棟の建物北辺部と西辺部が確認されました。また、礎石建物には2時期の存在が想定されました。

東棟の構築面は、西棟に比べて低いことも把握されていますが、建物の東西に高低差を設けた理由については、将来に明らかにしたいと考えています。

北辺部では太鼓塀の痕跡は確認できませんでしたが、盛土の下に遺構が残っている可能性も考えられました。

南辺部の土塁も、根元が盛土で覆われていたことが分かり、良好な残存状態にあることが確認されました。

遺物は、本丸で初の向鶴文軒丸瓦出土が特筆されます。この軒丸瓦が17世紀代のものであることは、御殿の整備と関連して興味深いものです。

また、従来の調査に比べ瓦や古銭の出土量が多い点は、本丸の東側一帯が良好な保存状況にあることを示唆しています。

令和5年度の本丸御殿発掘調査で検出した遺構の分布図
令和5年度調査区 遺構配置図
平成30年度から令和5年度までの発掘でみつかった花巻城本丸御殿の遺構分布図
花巻城跡本丸内容確認調査遺構配置図(平成30年度から令和5年度)

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