総合文化財センター常設展示室の期間展示コーナーを更新しました

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ページ番号1018426  更新日 令和6年3月4日

常設展示室に期間展示コーナーを開設しました。
早池峰の自然・文化・歴史・人のテーマから、企画展などで紹介した資料を展示します。
期間展示は、3か月程度で展示替えを行います。ぜひ、ご覧ください。

令和5年度の予定

開催期間

期 間

期間展示コーナー1

早池峰の自然・文化・人

期間展示コーナー2

埋蔵文化財

6月~8月 菅原隆太郎関係資料 安俵6区遺跡(東和地区) 出土石鏃
9月~11月 南部葉関係資料 花巻城跡(巻地区) 出土瓦
12月~2月 若ノ海関係資料 立石遺跡(大迫地区) 出土土偶
3月~5月 ベルンドルフ関係資料

安堵屋敷遺跡(石鳥谷地区) 出土朱塗り土器

大瀬川B遺跡(石鳥谷地区) 須恵器の壺

 

期間展示コーナー1 早池峰の自然・文化・人

友好都市ベルンドルフ市との交流を紹介します。
友好都市ベルンドルフ市との交流を紹介。
友好都市締結の議決書や20周年記念に寄贈されたミニワイン樽など
友好都市締結の議決書や20周年記念に寄贈されたミニワイン樽などです。
ベルンドルフ市との交流について紹介します。
ベルンドルフ市との交流

花巻市(旧大迫町)(おおはさまちょう)とオーストリア・ベルンドルフ市との友好都市交流は、早池峰山(はやちねさん)に咲くハヤチネウスユキソウとヨーロッパ・アルプス山脈に咲くエーデルワイスがよく似ているというきっかけから、1965年(昭和40)に姉妹都市締結(ていけつ)を行い交流が始まりました。
1970年(昭和45)の締結5周年には、記念モニュメント建設のため、女性建築家セルマ・ラストフカ氏が来町し設計。翌年には、その設計と大迫町内の職人によって「大迫町立山岳博物館(おおはさまちょうりつさんがくはくぶつかん)」が建設されました。
1980年(昭和55)の締結15周年では、大迫小学校とベルンドルフ市第1小学校・第2小学校と姉妹校締結を行いました。同年に、ベルンドルフ市へオーストリアワインの醸造(じょうぞう)技術を学ぶため、ぶどう酒醸造学校へワイン留学生を派遣しています。
1985年(昭和60)の締結20周年には、ベルンドルフ市から市長をはじめとした訪問団一行が大迫町に来町し、共に20周年を祝いました。これ以降、5年ごとに大迫町とベルンドルフ市との訪問団が互いに行き来する交流が始まりました。この交流は、市町村合併後の花巻市でも継続(けいぞく)され、2020年(令和2)の友好都市締結50周年には、ベルンドルフ市からの公式訪問団を迎えました。次の55周年は花巻市から公式訪問団がベルンドルフ市へ訪れる予定です。

期間展示コーナー2 埋蔵文化財

花巻市石鳥谷町五大堂の安堵屋敷遺跡から出土した朱塗り土器と石鳥谷町大瀬川の大瀬川B遺跡から出土した須恵器の壺を紹介します
花巻市石鳥谷町五大堂の安堵屋敷遺跡から出土した朱塗り土器と石鳥谷町大瀬川の大瀬川B遺跡から出土した須恵器の壺を紹介
安堵屋敷遺跡から出土した朱塗り土器と大瀬川B遺跡から出土した須恵器の壺です。
安堵屋敷遺跡から出土した朱塗り土器と大瀬川B遺跡から出土した須恵器の壺
安堵遺跡についての説明です。
安堵屋敷遺跡について

安堵屋敷遺跡(あんどやしきいせき)は昔から広い範囲(はんい)で縄文時代(じょうもんじだい)の遺物が見つかっており、よく知られている遺跡でした。
この遺跡は近くを流れる添市川(そいちがわ)の影響(えいきょう)をうけた自然堤防状(しぜんていぼうじょう)の微高地(びこうち)の上にありましたが、昭和55年の添市川の河川改良工事区(かせんかいりょうこうじく)に遺跡の一部がかかったため、岩手県埋蔵文化財センターが発掘調査を行いました。
調査の結果、今から3,000年~2,300年前の縄文時代晩期(じょうもんじだいばんき)の遺跡であること分かりました。発見された遺構(いこう)は、住居跡(じゅうきょあと)が2棟、埋設土器(まいせつどき)が5個、ピットが5つ、炉跡状遺構(ろあとじょういこう)が1つ見つかっています。見つかった2棟の住居跡は上下に重なるように発見されたことで、この集落(しゅうらく)では長い間この土地で生活していたということが考えられています。
遺物(いぶつ)は縄文土器(じょうもんどき)、土製品(どせいひん)、石器(せっき)、石製品(せきせいひん)などがありましたが、なかでも縄文土器が大量に出土しており、550個をこえる数の土器が復元(ふくげん)されました。また祭祀(さいし)に用いられたと考えられるミニチュア土器や土偶などが見つかっているため、縄文時代晩期の中心的な集落であったと考えられます。

朱塗り土器についての説明です。
朱塗り土器とは

朱塗(しゅぬ)り土器とは土器の表面や内側に赤色で彩色(さいしょく)された土器です。ベンガラと呼ばれる土から取れる酸化鉄(さんかてつ)を用いますが、中には漆(うるし)を混ぜて土器表面に塗(ぬ)り赤く色づけしたものもあります。土器以外にも石器や土偶(どぐう)や埴輪(はにわ)などの土製品・弓や櫛(くし)などに朱塗りされている出土品も見つかっています。朱塗りされた遺物の大半がベンガラのみで塗彩(とさい)されていますがこれは、ベンガラが日本全土どこにでもあり、採取(さいしゅ)が容易(ようい)であった事が考えられます。一方、うるしは採取場所も限られ、精製(せいせい)方法も複雑で量も取れないことから特別なもののみに塗彩されたと考えられます。
安堵屋敷遺跡からは深鉢・鉢・浅鉢・壷(つぼ)・注口(ちゅうこう)・香炉(こうろ)など様々な器形(きけい)に朱塗りされていますが、数はそれほど多くはありません。文様を朱で塗ったり、土器の装飾(そうしょく)の一部を塗り、一層(いっそう)際立(きわだ)たせていたりと縄文人の美に対するセンスや意識の高さがうかがえます。

大瀬川B遺跡の須恵器の壺ついての説明です。
大瀬川B遺跡の須恵器壺ついての説明

平安時代の中ごろ、相次ぐ天災(てんさい)や戦乱(せんらん)などから世情不安(せじょうふあん)が高まりました。また仏教(ぶっきょう)の歴史観では、釈迦(しゃか)の入滅(にゅうめつ)から2000年経過すると、仏法が大いに衰(おとろ)え、退廃(たいはい)し、乱れた世相になるという末法思想(まっぽうしそう)が語られました。日本では永承(えいしょう)7年(1052)が末法元年とされ、貴族や地方の有力者たちは、経典(きょうてん)を未来に伝えようとして、経塚(きょうづか)を盛んに築(きず)きました。岩手県でも、12世紀平泉藤原氏の時代を中心に多くの経塚が築かれ、花巻市内では丹内山経塚(たんないさんきょうづか)(東和町)や、高松山経塚群(たかまつやまきょうづかぐん)(高松)などが知られています。
大瀬川(おおせがわ)B遺跡は、街道を見下ろす丘の先端に営まれており、東北自動車道建設に伴い、岩手県教育委員会により発掘調査されました。3基の塚が東西に並んで築かれて、西側の1号塚の中心は、川原石を組んだ小さな石室(せきしつ)になっています。石室底面の平たい石の上には中国北宋銭(ほくそうせん)の至道元寶(しどうげんぽう)が置かれ、その上に須恵器の壷が設置され、上部を川原石で覆い、さらに土で被覆(ひふく)していました。壷の中には何も残されておりませんでしたが、塚の構造(こうぞう)は経塚であり、経典の容器として使用されたものと推定(すいてい)されます。この須恵器壷は平安時代後期の11世紀ごろの製品と考えられますが、やや古い壺が12世紀の経塚に再利用されて、現代まで残されました。なお隣の2号塚と周辺からは、12世紀の常滑三筋壷(とこなめさんきんこ)1個体分の破片が出土しています。

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花巻市総合文化財センター
〒028-3203 岩手県花巻市大迫町大迫第3地割39番地1
電話:0198-29-4567 ファクス:0198-48-3001
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