総合文化財センター常設展示室の期間展示コーナーを更新しました
常設展示室に期間展示コーナーを開設しました
早池峰の自然・文化・歴史・人のテーマから、企画展などで紹介した資料を展示します。
期間展示は、3か月程度で展示替えを行います。ぜひ、ご覧ください。
令和6年度の予定
期 間 |
期間展示コーナー1 早池峰の自然・文化・人 |
期間展示コーナー2 埋蔵文化財 |
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8月 | 早池峰山植物関係資料 | 毒沢城跡(東和地区) |
9月から11月 | ベルンドルフ関係資料 | 蒼前堂遺跡(花巻地区) |
12月から2月 | たばこ史料館関係資料 | 稲荷神社遺跡(大迫地区) |
3月から5月 | 山岳博物館関係資料 |
寺林城跡(石鳥谷地区) |
期間展示コーナー1 早池峰の自然・文化・人
早池峰山の植物研究は、ロシアの世界的植物学者マキシモヴィッチと岩手県紫波郡紫波町下松本(いわてけんしわぐんしわちょうしもまつもと)出身の須川長之助(すかわちょうのすけ)の2人から始まりました。
マキシモヴィッチは1860(万延元)(まんえんがん)年に来日し、1864(元治元)(げんじがん)年に帰国します。その後、マキシモヴィッチに代わり、須川が日本全国を巡って、植物採取を行い、研究を支援しました。
マキシモヴィッチは、須川が早池峰山で採取した植物標本をもとに、1868(明治元)(めいじがん)年にヒメコザクラ、1873(明治6)年にナンブトウウチソウ、1879(明治12)年にミヤマヤマブキショウマを発表します。
1903(明治36)年には、鳥羽源藏(とばげんぞう)らの採集品をもとに、牧野富太郎(まきのとみたろう)がナンブトラノオ、コバノツメクサを発表し、2年後の明治38年に牧野は早池峰山へ入山し、カトウハコベを発表しました。
その後も多くの研究者により、貴重な高山植物が発表されました。
期間展示コーナー2 埋蔵文化財
和賀氏の重臣毒沢氏が築いた城
毒沢(どくさわ)氏は、和賀政義(わがまさよし)の三男盛義(もりよし)が、南北朝時代の貞治(じょうじ)5年(1366)頃に、毒沢に分知(ぶんち)されてから始まるという天正(てんしょう)18年(1590)の和賀・稗貫一揆(ひえぬきいっき)では、毒沢伊賀守一忠(いがのがみかずただ)が鳥谷ケ崎(とやがさき)城攻めに参加してます。慶長(けいちょう)6年(1601)の岩崎城籠城(いわさきじょうろうじょう)戦では一忠の嫡男(ちゃくなん)義森(よしもり)が参戦し、翌年、和賀忠親(ただちか)とともに伊達領(だてりょう)に逃げ込み、結局、陸奥国分尼寺(むつこくぶんあまでら)で自害(じがい)しています。しかし、義森の嫡男吉広(よしひろ)は、伊達氏の家臣(かしん)となって姓を只野(ただの)と改めている。その後孫の勝女姫(かつめひめ)が伊達政宗の側室(そくしつ)となり一男をもうけ、伊達騒動の原因となっています。
毒沢城は、南北に延びる丘陵頂部(きゅうりょうちょうぶ)に築かれた山城です。主体部となる山頂部は東西60m×南北100mの規模で整地されています。主郭(しゅかく)の切岸(きりぎし)は見応えがありますが、平坦部(へいたんぶ)は狭(せま)く、東西50m×南北30mの規模で、東西二段に分かれています。主郭の周りは同心円状(どうしんえんじょう)に数段の幅広い帯郭(おびくるわ)が造られています。北西、南西、東側の尾根続きには、数段の帯郭と空堀(からぼり)と土塁(どるい)などによって複郭(ふくかく)を構築(こうちく)して防御を固めていますが、南東側の郭は登山道路を造ったためか、やや崩れています。北東側の尾根には、数段の帯郭が築かれた比較的規模の大きな郭があり、これが二の郭の役目を果たしていると思われれます。大手口(おおてぐち)は、現在登山道路が整備されている北東側、あるいはやや緩斜面となっている南東側からのルートが考えられます。
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