総合文化財センター常設展示室の期間展示コーナーを更新しました
常設展示室に期間展示コーナーを開設しました
「早池峰の自然・文化・歴史・人」「埋蔵文化財」の二つのテーマから、企画展などで紹介した資料を展示します。
期間展示は、3か月程度で展示替えを行います。ぜひ、ご覧ください。
令和6年度の予定
期 間 |
期間展示コーナー1 早池峰の自然・文化・人 |
期間展示コーナー2 埋蔵文化財 |
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8月 | 早池峰山植物関係資料 | 毒沢城跡(東和地区) |
9月から11月 | ベルンドルフ関係資料 | 蒼前堂遺跡(花巻地区) |
12月から2月 | たばこ史料館関係資料 | 稲荷神社遺跡(大迫地区) |
3月から5月 | 山岳博物館関係資料 |
寺林城跡(石鳥谷地区) |
期間展示コーナー1 早池峰の自然・文化・人



日本の近代登山の草分けで、宮城県仙台市出身の槙有恒(まきありつね)氏は元日本山岳会会長や名誉会員などを務めた登山家です。1911(明治44)年、慶応義塾大学予科(けいおうぎじゅくだいがくよか)に入学し、1915(大正4)年に慶応義塾山岳会を創設(そうせつ)。卒業後は、アメリカ・コロンビア大学へ留学(りゅうがく)します。
1921(大正10)年9月、27歳でスイスのアイガー東山稜(ひがしさんりょう)の初登攀(はつとうはん)を成功させ世界的な名声を得ます。帰国後には、岩山登りや冬季登山に取り組み始めたばかりの日本の登山界へアルプスの本格的な登山技術を紹介します。
1925(大正14)年に、カナダのロッキー山脈アルバータ山へ日本最初の海外登山隊隊長として遠征(えんせい)し、全員登頂に成功します。1957(昭和31)年には、62歳で第3次日本山岳会マナスル登山隊に隊長として参加し、初登頂に成功します。この年、文化功労者に選ばれています。
1969(昭和44)年、若い頃からの夢としていた早池峰山(はやちねさん)への初登山を75歳で行います。その縁で、大迫町立山岳博物館の看板を揮毫(きごう)しています。
期間展示コーナー2 埋蔵文化財



中世街道の要所
中世に寺林の地を領有したのは伊予国(いよのくに)(現愛媛県)の豪族・河野(こうの)太郎通俊(みちとし)の二男伊予守通重(みちしげ)です。通重の嫡男(ちゃくなん)通次(みちつぐ)は、一遍上人(いっぺんしょうにん)に帰依(きえ)し、寺林に戻って弘安3(1280)年に時宗(じしゅう)の光林寺(こうりんじ)を開いたといいます。以来、光林寺周辺は寺林城として要害普請(ようがいぶしん)され、城館と道場の二つの役目を果たしています。河野氏は、のちに寺林氏を名乗ったと考えられ、天正の頃には、寺林民部(みぶ)、寺林将監(しょうげん)、寺林縫殿助(ぬいのすけ)などの名がみえます。
寺林城は、光林寺の境内を中心とする微高地にあり、城の大手は現在の光林寺山門と考えられ、道路の両端に幅2mから3mの土塁(どるい)が鍵の手に曲がっており、城の周辺には外堀(そとぼり)として水堀(みずぼり)が造られています。寺林城で残っている遺構として最も見応えのあるのは、光林寺の西側の林の中にある2重の空堀(からぼり)と3重の土塁です。寺の墓所から真っ直ぐに70mほど伸びて、ルンビニー学園の手前で直角に曲がって50mほど先で消えています。そのほかにも、台地の縁辺部の所々に土塁等が残っていますが、残りが良いとは言えません。寺林城は、防御的(ぼうぎょてき)には多くの弱点がありますが、永享(えいきょう)の乱では南部勢に真っ先に攻められ、天正(てんしょう)18(1590)年の和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)一揆でも、寺林城を守る浅野六兵衛(ろくべえ)が討ち取られるなど、数々の戦乱の場となってきました。この背景は、城の東側を通っていた中世街道(ちゅうせいかいどう)の要地(ようち)に位置していたためと考えられます。
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花巻市総合文化財センター
〒028-3203 岩手県花巻市大迫町大迫第3地割39番地1
電話:0198-29-4567 ファクス:0198-48-3001
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