収蔵品紹介

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ページ番号1020197  更新日 令和6年1月30日

収蔵品紹介

萬鉄五郎記念美術館が所蔵するコレクションの中から、萬鉄五郎の代表的な作品をいくつか紹介します。

太陽と道

萬鉄五郎《太陽と道》画像
萬鉄五郎《太陽と道》1912年頃 油彩・板 24.0×33.0cm

中心に描かれた太陽はまるで質量を持って突き刺すような光を放っています。その下の道や家、木々は太陽の光を強く浴びてギラギラと輝くというより燃えているかのようです。

この「太陽と道」は、萬鉄五郎が美術学校を卒業した頃に描かれたものです。このころ萬は西欧の最新の画風をどん欲に取り入れた作品を多く描きました。本作もそんな作品のなかの1点で、激しい色彩と筆遣いにゴッホの影響を強く見ることができます。強烈な光を放つ太陽という題材を選んだところも、太陽を多く描いたゴッホを強く意識したものでしょう。しかしゴッホとは違い、太陽が木や家よりもっと手前にあるかのように描かれています。陽光が全てのものを覆いつくすかのような描き方は萬ならではの表現です。

この作品には同モチーフの木版画も存在しています。版画ですので油彩画とは左右反転の構図となっていますが、気にいった題材は技法を変えて何度も繰り返すという萬の特徴がここに現れています。

ところでこの「太陽と道」は、木の板に描かれています。板の有効活用というわけではないでしょうが、裏面には「軽業師」という油彩画が描かれています。画材そのものや板を新しく用意する時間を惜しんで制作に打ち込む若い画家の姿をそこに見ることができるかもしれません。

軽業師

萬鉄五郎《軽業師》画像
萬鉄五郎《軽業師》1912年頃 油彩・板 33.0×24.0cm

「浅草に通ってるうちにロートレックまがいのものを描き始め浅草の魔女や玉乗などを画題にした事が一寸続いた。」(※1)

萬鉄五郎は1912(明治45)年に東京美術学校を卒業し、画家として歩み始めますが、妻子を養うために看板描きなどのアルバイトに追われていました。ここで萬が述べているように、アルバイトの傍ら通っていた浅草で、当時流行していた曲芸を題材に描いたのが《軽業師》です。

袴姿の女性が、人の入ったタライを脚で持ち上げ回しています。舞台裏で演目の一つを練習している場面なのでしょう。傍には補助員と思しき人物も小さく描かれています。赤い布や荒々しい筆致が目を引き、軽業師の肉体は大胆にデフォルメされ子供が描いたようです。これは、フォーヴィスム(野獣派、※2)の影響を受けていた当時の萬の特徴的表現です。

萬は、軽業師の肉体の動きや構図の面白さに注目してこの作品を描いたのでしょう。下になっている人物を見ると、大きく膨らんだ脚の筋肉でタライを支え、上手くバランスを取ろうとしている、その緊張が伝わってきます。

一方、タライの中に入っている人物は、窮屈そうに手脚を折り曲げて、どこかひょうきんな顔でこちらを見つめています。彼の目線の先には、熱心にスケッチをしている画家の姿がぐるぐる回って見えていたかもしれません。

(※1)萬鉄五郎「私の履歴書」『中央美術』大正十四年十一月号
(※2)20世紀初頭にフランスで起こった絵画運動。マティスなどに代表される、強烈な色彩や大胆な筆致が特徴。

口髭のある自画像

萬鉄五郎《口髭のある自画像》画像
萬鉄五郎《口髭のある自画像》1914年 油彩・画布 45.8×33.5cm

萬鉄五郎は生涯で多くの自画像を描きました。写実的なものから強くデフォルメされたものまで、その描き方は様々です。例えば「赤い目の自画像」(明治45年‐大正2年 岩手県立美術館蔵)では、顔が赤や青、緑の強烈な色彩で描かれ、「目のない自画像」(大正4年 岩手県立美術館蔵)に至っては、目も口もないノッペラボウのような顔に描かれました。というのも、萬は、絵画制作の実験として自画像を描いたと思われるのです。自画像が描かれた時期は、ちょうど画風の転換期と重なります。この「口髭のある自画像」が描かれた大正3年も、家族を伴い帰郷し制作に打ち込んでいた頃で、その画風もキュビスムへ移行していく時期にあたります。茶褐色を基調に正面から描かれた顔は写実的ですが、よく見ると輪郭のにじみやブレがあります。対象を解体し画面上に再構成していく、キュビスムの兆しを見て取ることができます。

また、この絵は、版画家の棟方志功が旧蔵していました。棟方は萬にたいへん心酔しており、なんとかその作品を手に入れたいと願っていました。その甲斐あって、ようやく手に入れることが出来たこの自画像に、棟方は「萬鉄五郎先醒(ルビ:せんせい)作」と書いた和紙をまるで封印するかのように額裏に貼り、アトリエに飾っていたといいます。若き日には画家を志していた棟方の、同じ東北出身である萬への強いあこがれが伝わってくるエピソードです。

丘のみち

萬鉄五郎《丘のみち》画像
萬鉄五郎《丘のみち》1918年 油彩・画布 40.6×45.9cm

緑色と茶色の色の帯がグネグネと動いているように描かれ、「内臓模型のような」とも言われる作品。ここに描かれているのは、現在、萬鉄五郎記念美術館が立つ「舘山」の丘と言われています。そういわれれば、なるほど赤土の道と草むらが描かれており、左側に見える青いものは土沢城の堀跡という池でしょう。

この作品が描かれる4年前の大正3年秋、萬は家族を伴い東和町土沢に帰郷し、制作に打ち込みます。その際もっぱらモチーフとされたのが土沢の風景と自画像で、色彩もそれまでの激しいものからモノクロームへと変化し、形態も単純化が進みます。この「土沢時代」はちょうど萬の画風の転換期であり、幼い頃から慣れ親しんだ風景は、新表現の模索のための試行錯誤には、よく馴染んだのかもしれません。

帰郷して1年半後の大正6年春、萬は再び上京。土沢でのスケッチを元に本作『丘のみち』をはじめとする、多くの傑作を描いています。

海岸風景

萬鉄五郎《海岸風景》画像
萬鉄五郎《海岸風景》1923年 油彩・画布 31.8×40.9cm

萬鉄五郎《海岸風景》は、晩年病気療養のため移り住んだ茅ケ崎時代の作品です。萬鉄五郎は一時帰郷していた土沢時代を切り上げ、再度上京したのが1916(大正5)年です。土沢で約2年間、立体派(キュビスム)を研究した成果を、作品《もたれて立つ人》に結実させ、造形の頂点を迎えました。その頃の萬は友人画家の訪問や、雑事も多く、制作はもっぱら夜間に行うことが続き、寝不足と過労を重ね神経衰弱気味になり、また肺結核にかかっていることも分かりました。1919(大正8)年、萬は病気療養のため、すでに茅ケ崎で療養生活をおくっていた弟泰一のもとに身を寄せ、やがて家族も呼び寄せ、ここでの療養生活が始まります。

この作品は1923(大正12)年、萬の自宅近くの結核療養所の「南湖院」を描いたものです。しかし前景に黒の太い線が横たわり、付近の柵が倒れ、建物も山並みも動いているようで、それに空の不気味な色が一層不安感を醸し出しています。同年9月1日に起こった関東大震災直後の作品で、彼が受けた地震への恐怖感がよく表れてます。翌年描いた《地震の印象》は、この作品をもとにした作で構図も同じとなっています。

紅葉風景

紅葉風景
萬鉄五郎《紅葉風景》1926年 油彩・画布 33.4×45.5cm

燃えるような朱色に染まった紅葉が印象的な絵画《紅葉風景》は萬鉄五郎が秋真っ盛りのふるさとの景色を描いたものです。山際を涼しげな瀬音を立てて流れている川は、遠野から花巻へ向かい北上川で合流する猿ヶ石川です。画面右側の岩肌があらわに切り落とされた道路は現在の国道283号で、この岩陰の奥には発電所があります。花巻と宮守の境に程近いこの地は、古くから「アツラク」や「アテラク」と呼ばれ、誰もが知る有名な場所だったといわれています。

画面右下にサインがあり、大正15(1926)年に描いたと記されていますが、この年の秋に郷里を訪れたのではなく、描きためたスケッチを基に制作したものと思われます。萬は、大正3(1914)年から一年半、郷里で制作に明け暮れました。この時、スケッチ旅行と称し地元の絵描き仲間と連れだってこの地を何度か訪れ、多くのスケッチを残しています。

この作品と全く同じ構図で描いた油彩画が、桜地人館(桜町)に展示されています。これも萬の作品ですが、大正4(1915)年頃に描かれたもので、春から夏にかけての日差しの強さが感じられる風景となっています。その11年後、郷愁の念から再びこの地を描いたのかもしれません。

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萬鉄五郎記念美術館
〒028-0114 岩手県花巻市東和町土沢5区135
電話:0198-42-4402 ファクス:0198-42-4405
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