大迫町郷土いろはかるた(前半)

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ページ番号1008406  更新日 令和2年8月20日

箱
昭和51年7月選定 大迫早池峰ライオンズクラブ
い
南部葉・・大迫だけで栽培され、現在輸出される唯一の国産葉たばこ。明治初年、富沢安五郎氏が横浜の外国人と直接取引して以来、この輸出は続いている。
ろ
べんけい・・川魚の串刺しを刺しておく、ワラ製の民具。
湯だんご・・そば粉を練っただんごで、ゆでてネギ味噌で食べる。
は
針塚・・この碑は、川原町到岸寺にあって、裁縫塾を長年開いた山田勝子女史の遺徳をたたえ、弟子達が辞世の歌を刻み針塚とした。

に

ほ

へ

と
乗合馬車・・明治40年頃、大迫~石鳥谷間に乗合馬車がトテトテとラッパを鳴らして走った。上の台の小野西松氏が始めてから大正12年に自動車が通るまで営業した。
ち
お諏訪さん・・外川目下中居の諏訪神社をお諏訪さんと呼ぶ。元禄時代に再興された。そのそばにある太い桜を千歳桜と呼ぶ。
り
大信田氏・・大迫の旧家。その祖は西国の雄、大内氏だといわれる。八木沢金山が盛んな頃、店を出し、鉱夫のわらじを無料で交換、そのわらじの土を洗い流した中から金の粒を拾って財をなしたという。
ぬ
小田越・・小田は田の意、ぬかるみの意味でもある。ここを越えて海岸地方と交易がなされ、塩も運ばれた。
る
金山跡・・大迫は金の町であり、いたるところに金山の跡を見ることができる。露天掘りの跡など、るいるいとした石の山も見られる。
を
錦木・・錦木は川原町で生まれた江戸時代の相撲、力自慢の逸話が残っている。到岸寺墓地に墓がある。南部出身の錦木のしこ名とする力士は数人いるがその一人である。
わ
太神楽・・太神楽は現在亀ケ森に伝わるものの系統のみ上演できる太神楽として残っている。七福神舞は数ある演目の中の1つでめでたいものである。
か
玄蕃・・亀ケ森家は、稗貫氏の家臣で、その祖は図書といわれる。秀吉の要請による小田原攻めに参陣しないために稗貫家は所領を没収されたが、亀ケ森図書の子孫の玄蕃は南部家に仕えた。八幡舘は亀ケ森家の居館であった。
よ
あんどん祭り・・大迫のあんどん祭りは、天明の飢饉で死んだ人々の霊をなぐさめるため、始められたものと言われる。
た
大迫銭・・大迫銭といわれる鉄銭は、外川目大倉掛の銭座でつくられた。慶応3年開設、明治2年一揆のため焼出した。
れ
川原の坊は、早池峰山の正面コース登り口である。昔、快賢という聖が庵を結んだといわれるが、宝治2年の大洪水(白ひげ水という)で流された。
そ
兵部郷・・山陰兵部は早池峰開山の祖である。彼は、猟の途次、鹿の姿となって現れた早池峰の神に導かれて頂上に達し、ふもとに田中神社を祀った。
つ
念仏踊・・念仏踊は平安の頃空也聖人が創始したものと言われる。大迫地方は、上町に住んでいた佐藤金右衛門氏がひろめたとされる。その1つが内川目中乙に残っている。つぼけはその踊りの用具である。
ね
猫山・・猫山は、外川目合石にある草山である。宮澤賢治が大正年間この地方の地質を調査したが、彼の童話の猫のイメージは、この地方の風景に求めることができるという研究がある。
な
七折滝・・折合の滝ともいう。鶏頭山の中腹にある瀑布である。大正時代岩手日報社が岩手十勝を募集したとき、その中に入った。

ら

む
紫桐・・南部紫桐は、桐材として細工物に珍重される。この桐は大迫産のものが南部の中でも最上とされる。よく育つ土は山鳩色をしていて、それが大迫地方だと南部藩の古文書に出てくる。

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