花巻市の紹介

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ページ番号1002458  更新日 平成31年2月8日

四季折々の風が香るまち

花巻市の位置、面積

花巻市は岩手県のほぼ中央に位置し、総面積は908.39平方キロメートル。西に奥羽山脈、東には北上高地の山並みが連なる肥沃な北上平野に位置し、季節ごとに変化に富んだ自然風景が広がる美しいまちです。

写真:円万寺観音山からの景色

花巻市の温泉

市の西部には、奥羽山脈の渓谷沿いに湧き出る花巻温泉郷があります。周辺は県立自然公園に指定され、立ちのぼる湯けむりと深山の緑、目の前を流れる清流が、情緒豊かな風景を醸し出します。

写真:花巻温泉

写真:大沢温泉

花巻市の山

北東部には標高1917メートル、北上高地の最高峰、早池峰山がそびえます。国定公園であるほか高山植物の宝庫として知られ、ハヤチネウスユキソウなどここでしか見ることのできない花々が、全国から訪れる登山客を魅了しています。

写真:早池峰山

写真:ハヤチネウスユキソウ

花巻市の自然

市の中央を流れる北上川をはじめ、それに注ぎ込む澄んだ河川が、私たちに水辺の恵みをもたらします。奥羽山脈に源を発する葛丸川渓流では、奇岩や滝などの渓谷美と釣りや紅葉、森林浴を楽しむことができます。氷柱の太さでその年の米の作柄を占う「たろし滝」は、厳冬の風物詩となっています。周囲が45キロ平方メートルにもおよぶ人造湖、田瀬湖周辺は、ヨットやカヌーを楽しめるヨットハーバーやキャンプ場、釣り公園などが整備され、大自然を肌で感じることができます。
春夏秋冬、移りゆく季節とともに暮らすまち、花巻市。私たちのまちには、美しい風景があります。

写真:たろし滝測定会

写真:田瀬湖

花巻市の先人、伝統芸能、技術、交通

また、宮沢賢治や萬鉄五郎などの世界的に知られる先人を輩出するとともに、早池峰神楽や鹿踊りなどの郷土芸能、日本三大杜氏のひとつ南部杜氏、さき織り、ホームスパン等の優れた技術が多く伝えられています。さらに、岩手県内唯一の花巻空港があり、東北新幹線新花巻駅や東北自動車道、東北横断自動車道などの高速交通網が整備されるなど、北東北の高速交通網の結節点という極めて恵まれた拠点性を有しています。

花巻市の気象

気象条件は、北上川を挟んだ低地帯の東部では内陸型盆地気象が強く、特に夏場における昼夜の温度差が大きく、冬期は比較的温暖で積雪量が少ないです。一方、西部の奥羽山麓は寒冷多雪の気候に支配され、12月から3月まで積雪もありますが、奥羽山麓にさえぎられるため、日本海側よりは少ない積雪となっています。

花巻市の歴史

花巻市には、古代からの生活の場であったことを示す縄文時代の遺跡が数多くあります。
弘仁2年(811年)の「日本後記」に「陸奥国に和我、稗縫、斯波の三郡を置く」と記述されており、しばらくしてこの地方は、律令制度の下で安倍氏、藤原四代の統治を受けることとなりました。
その後、約400年にわたって稗貫氏や和賀氏などの治世下となり、稗貫氏は旧花巻市、大迫町、石鳥谷町、東和町(一部)にまたがった地域を、また、稗貫氏と姻戚をなす和賀氏は、現在の北上地方をはじめ旧東和町の大部分を治めていました。
江戸時代には、本地域を南部氏が統治しました。この地方は、盛岡藩の南端に位置し、軍事上の重要な拠点、穀倉地帯として、陸運・船運も発達し栄えてきました。
廃藩置県が行われた後は、明治22年(1889年)の町村制施行、昭和29年(1954年)前後の町村合併などを経て、花巻市、大迫町、石鳥谷町、東和町が誕生し、それぞれ特徴を生かしながら発展を続け、平成の大合併においては、平成18年1月1日、同1市3町による新設合併が実現したところです。

花巻市の将来都市像

市民パワーをひとつに歴史と文化で拓く
笑顔の花咲く温(あった)か都市(まち) イーハトーブはなまき

  • 幅広い世代の市民がまちづくりに参画し、協働で活力あるまちづくりを進めています
  • 先人たちがこれまで培ってきた歴史や文化を学び、次世代に伝え、心豊かな市民を育んでいます
  • 花巻市が持つ「強み」にさらに磨きがかかり、人々が希望を持って働いています
  • 豊かな自然を大切にし、誰もが笑顔で、健康に暮らせる温かい地域社会になっています
  • 宮沢賢治の生誕地であることを誇りにし、「賢治さん」の香りあふれるまちになっています。

花巻ゆかりの偉人

宮沢賢治(みやざわけんじ)

写真:宮沢賢治©林風舎

若くしてその才能を開花させ早すぎる最後を迎えた賢治。
明治29年(1896)8月27日稗貫郡里川口村川口町(現花巻市豊沢町)生まれ。明治42年(1909)県立盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)入学。大正4年(1915)盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農学科第二部に首席で入学。大正10年(1921)稗貫農学校(花巻農学校 現県立花巻農学校)教諭に就任し、教鞭を執る傍ら、多くの詩や童話を創作しました。

大正15年(1926年)30歳で農学校を退職し市内の下根子桜(現花巻市桜町)において独居生活を始め、農事講演や肥料相談のため近くの村々をまわったり、羅須地人協会を設立して農業や芸術の講義をしたりしました。昭和8年(1933)年9月21日37歳の若さで永眠。
童話や詩で知られる宮沢賢治ですが、このほかにも教育者として、農業者として、さらに天文・気象・地理・歴史・哲学・宗教・化学・園芸・生物・美術・音楽など多方面でその才能を発揮しました。花巻には賢治の足跡をたどることができる施設が点在しています。賢治の愛したふるさと花巻にぜひお越しください。

宮沢賢治記念館

宮沢賢治の詩や童話、教育、農業、科学と多彩な活動を繰り広げた世界を紹介する施設で、昭和57年(1982)9月21日(9月21日は賢治の命日)に開館。平成27年4月には、開館以来32年ぶりの展示リニューアルを行っています。
電話番号:0198-31-2319

写真:宮沢賢治記念館

新渡戸稲造(にとべいなぞう)

写真:新渡戸稲造

前5千円札の肖像として有名な新渡戸稲造(文久2年(1862)8月8日~昭和8年(1933) 10月15日)は、「願はくは、われ太平洋の橋とならん」との信念のもと、国際人として、また教育者として活躍しました。
彼の先祖は、1598年(慶長3年)から約230年間、花巻市高松に居住した武士で、新田開発など地域の発展に貢献し、稲造の父・十次郎まで花巻で生まれました。新渡戸家屋敷の跡には花巻新渡戸記念館が建っています。稲造は、明治39(1906)年から大正2年(1913)まで旧制第一高等学校長、大正7(1918)年東京女子大学初代学長に就任。さらには、大正9(1920)年国際連盟が結成されると事務次長として草創期の国際連盟活動に尽力しました。

写真:新渡戸記念館

花巻新渡戸記念館

藩政時代約230年間にわたって花巻に居住し、新田開発等地域開発に貢献した新渡戸氏の業績と新渡戸稲造の生涯を紹介しています。記念館周辺の「新渡戸家屋敷跡地」には新渡戸稲造名義のままの土地もあります 。
電話番号:0198-31-2120

高村光太郎(たかむらこうたろう)

写真:高村光太郎

明治16年(1883)3月13日東京生まれ。明治39年(1906)に留学に出て、ニューヨーク、ロンドン、パリに滞在し明治42年(1909年)に帰国。大正3年(1914)に詩集『道程』を出版。
大正15年(1926)には宮沢賢治が上京して光太郎のアトリエを訪れたと記録されています。宮沢賢治没後3年の昭和11年(1936)光太郎が揮毫した賢治詩碑が花巻市桜町に建立。昭和16年(1941)には詩集『智恵子抄』を出版。昭和20年(1945)空襲によりアトリエが炎上し、5月に宮沢賢治の弟・清六氏を頼り東京から花巻に疎開。同年10月に花巻郊外の大田村(現花巻市大田)山口の山小屋に移り、7年間、農耕自炊の孤独な生活を送りながら創作活動を行いました。昭和31年(1956)4月2日東京で死去。享年74歳。

写真:高村山荘

高村山荘・高村光太郎記念館

高村光太郎が晩年の7年間暮らした山荘が今でも高村山荘として残されています。隣接する高村光太郎記念館には、光太郎自筆の書や彫刻などが展示されています。
電話番号:0198-28-3012

萬鉄五郎(よろずてつごろう)

写真:萬鉄五郎

明治18年(1885)11月17日東和賀郡十二ケ村(現花巻市東和町土沢)生まれ。子どものころから絵に親しみ、明治40年(1907)22歳のときに東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。明治45年(1912)東京美術学校の卒業制作である「裸体美人」(東京国立近代美術館所蔵・重要文化財)は、強烈な色彩と大胆な筆づかいで日本の前衛絵画の先駆的作品といわれています。
大正3年(1914)から大正5年(1916)まで土沢に帰郷し、実家に近いモダンな木造西洋館にアトリエを構えて制作に専念して多くの作品を描きました。その後、東京や神奈川において創作活動を続け、昭和2年(1927)5月1日神奈川県茅ヶ崎市で死去。享年42歳 。

写真:萬鉄五郎記念館

萬鉄五郎記念美術館

萬鉄五郎を研究する専門美術館として開館し、昨年で30周年を迎えましたが、その間に200点余りの油彩や水彩作品、さらに素描や資料を含め約550点の萬鉄五郎作品資料を収集してきました 。
電話番号:0198-42-4402

島善鄰 (しまよしちか)

写真:しまよしちか

明治22年(1889)8月27日、花巻居住の武士であった島家の直系として広島市で生まれました。8歳のときに父が亡くなり稗貫郡矢沢村(現花巻市矢沢)に移って矢沢で少年時代を過ごしました。盛岡中学校(現盛岡第一高校)などを経て、大正3年(1914)東北帝国大学農科大学(現 北海道大学)を卒業。大正5年(1916)青森県農事試験場の技師となり、リンゴ栽培の研究・開発・普及に尽力しました。この間、故郷の花巻に帰り、地元のリンゴ農家に剪定や摘花等の栽培指導を行い花巻りんごが全国に知られるようになりました。
昭和2年(1927)から北海道帝国大学で助教授や教授として教鞭をとり、昭和23年(1948)に花巻に帰郷した際には、地元の矢沢中学校に「照一隅」(一隅を照らす)の書を贈りました。
昭和25年(1950)から昭和29年(1954)まで北海道大学学長に就任。昭和39年(1964) 8月7日死去。享年75歳。

淵澤能恵(ふちざわのえ)

写真:淵澤能恵

嘉永3年(1850)5月8日、関口村(現花巻市石鳥谷町八重畑関口)生まれ。西洋文明に憧れを持ち、明治12年(1879)29歳の時に、釜石で鉱山技師・鉄道技師として働いていたバーゼル家の帰国に従って渡米。英語と家政学を学び明治15年(1882)に帰国。その後、東洋英和女学校や一橋高等女学校などの教師として教育にあたりました。
明治38年(1905)女子教育の場が少なかった韓国に渡り、翌年ソウルに明新女学校(現淑明女子大学)を開校し韓国の女子教育に尽力しました。昭和11年(1936年)2月8日死去。享年86歳。

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