賢治ゆかりの地

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ページ番号1007048  更新日 平成31年2月25日

胡四王山

概要

胡四王山は、宮沢賢治とのゆかりが深く、短歌や文語詩未定稿「丘」でも取り上げられています。また、賢治が愛用していた手帳に記されていた「経埋ムベキ山」のひとつでもあります。胡四王山には宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村など宮沢賢治に関連する施設が点在しています。賢治が残した設計図を元に再現された南斜花壇と日時計花壇もあり、胡四王山の散策に彩を与えてくれます。

「雨ニモマケズ」詩碑

概要
賢治はこの場所に、農業技術や農業芸術論などの講義をするため「羅須地人協会」を設立しました。詩碑は賢治の没後に教え子たちをはじめ多くの人々の協力によって建てられました。揮毫は芸術家の高村光太郎です。「羅須地人協会」は花巻農業高等学校(賢治が教諭として勤務した花巻農学校の後身に当たる学校)の敷地内に移築復元されました。

羅須地人協会跡

概要
大正15年(1926)、農学校を退職した賢治が、農民たちを集めて農業技術や農業芸術論などを講義するために「羅須地人協会」を設立しました。昭和3年(1928)に病気になるまで、賢治はこの建物で自炊生活をしていました。見学などのお問い合わせは県立花巻農業高等学校にお問い合わせください。
電話番号
0198-26-3131(岩手県立花巻農業高等学校)

下ノ畑

概要
「羅須地人協会」の玄関に取り付けられた伝言板に「下ノ畑ニ居リマス」と書かれていますが、その「下ノ畑」は「雨ニモマケズ詩碑」から東に見下ろす北上川に向かって500メートルほどの所にあります。

弥助橋跡

概要
この辺りには当時、地元の人たちが「カッパ沢」と呼んでいた広く深い沢があり、沢には弥助橋という土橋が架かっていました。橋の架け替え工事の際は、地元住民らが労力奉仕するのが常で、賢治も生家の山林から木を切り出して提供し、進んで作業に参加しました。作業が終わった後の野宴に参加した賢治は、その時の情景を詩に詠んでいます。

桜地人館

概要
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑入口に建つ桜地人館。ここでは、宮沢賢治、高村光太郎、萬鉄五郎の資料や作品を展示しています。

花巻大三叉路

概要
当時、賢治の生家のある豊沢町通りは国道で、賢治はこの国道と奥州街道とのY字路を「花巻大三叉路」と名付けていました。「春と修羅」第一集「グランド電柱」の中に「花巻大三叉路」の記述がみられます。

賢治の生家

概要
賢治は明治29年(1986)8月27日に生まれました。第二次世界大戦末期の空襲を受け住居は焼失しましたが、戦後立て直されて現在は親族が居住しています(住居につき見学はご遠慮ください)

花巻警察署跡

概要
大正時代、この辺りには花巻警察署がありました。童話「毒もみのすきな署長さん」は、毒を使って魚を捕る「毒もみ」を取り締まる責任者の署長さんが、実は犯人だった、という話です。

求康堂跡

概要
求康堂は、賢治と親交のあった斎藤宗次郎が営んでいました。ここから下る坂を舘坂といい、賢治もこの舘坂を通ったと思われます。舘坂には賢治作品のモニュメントが点在しています。

花城小学校跡

概要
このあたりに、かつて賢治が学んだ花城小学校がありました。賢治は明治36年(1903年)花巻川口尋常高等小学校に入学しました。その後校名は花城尋常高等小学校に改まり、明治42年(1909年)に同校を卒業しました。

岩手軽便鉄道鳥谷ヶ崎駅付近

概要
この辺りは、岩手軽便鉄道鳥谷ヶ崎駅跡や稗貫郡役所跡など賢治の作品の舞台となったゆかりのスポットが点在しています。また、賢治が教鞭をとった稗貫農学校や、妹トシが通い大学卒業後教壇に立った花巻高等女学校がありました。

花巻城跡

概要
現在花巻小学校があるこの辺りは、かつて花巻城があった場所で、賢治が若いころ花巻城跡で作ったと思われる短歌がいくつかあります。

イギリス海岸

概要
賢治は北上川の水位が下がった時にこの西岸に現れる泥岩層が乾いて白く見える様子が、ドーバー海峡の白亜の岸に似ていることから「イギリス海岸」と名付けました。現在は渇水の時期など極稀に見ることができます。

岩手軽便鉄道花巻駅跡

概要
花巻駅周辺は童話「シグナルとシグナレス」の舞台です。東北本線のシグナルと岩手軽便鉄道のシグナレスを恋人同士に見立て、身分の違いに悩みながらも愛を誓う物語です。

四本杉跡

概要
この地にあった四本杉は、樹齢300年を超える巨木で、広大な高原のシンボルとなっていました。落雷などで損傷したため、昭和53年(1978年)に伐採されました。

花巻農学校跡(ぎんどろ公園)

概要
賢治は、大正12年(1923年)4月から、この地に新設された県立花巻農学校で3年間教壇に立ち、土壌、肥料、作物、農業製造、英語、化学、代数、気象の8教科と実習を担当しました。その後農学校は移転し、この跡地は文化会館などの施設と「ぎんどろ公園」が整備されました。

鼬幣稲荷神社

概要
鼬幣稲荷神社は、賢治の盛岡中学校時代の同級生で親友だった阿部孝の居住跡です。阿部孝は代々、鼬幣稲荷神社の神主である家の長男でした。阿部孝が東京帝国大学(現東京大学)に在学中、彼の下宿先で萩原朔太郎の詩集「月に吠える」に出会ったことが、詩人宮沢賢治の誕生に大きな影響を与えたといわれています。

清水寺

概要
この地方の「市」として古くから賑わったのは清水寺の門前で、賢治も陰暦6月と7月に催されていた清水祭(宵宮)の盛況ぶりを「田園浅草」と名付けて、教え子を連れて何度も出向いたと言われています。

鉛温泉・大沢温泉

概要
賢治は大正7年(1918年)、盛岡高等農林学校研究生として「稗貫郡地質及土性調査」に携わるため鉛温泉を訪れ、周辺一帯の地質を精査しました。また賢治は、明治39年には大沢温泉で開かれた父政次郎が主催者の一人である花巻仏教会の「夏期講習会」に参加しました。その際の参加者の記念写真が大沢温泉の旅館内に飾られており、少年の日の賢治も写っています。

春日神社

概要
「春と修羅」第三集、詩「秋」の中に登場する「赤い鳥居」は、春日神社の鳥居といわれていますが、平成15年(2003年)の地震で倒れ、現在は石の鳥居になりました。また、同じく詩「秋」にある「昴の塔」は昴申塔のことを表しているといわれています。この地域は昴申信仰が篤く神社の境内には今でも数多くの昴申塔が建っています。

花巻温泉

概要
花巻温泉は、台温泉から湯を引いて造成され、大正12年(1923年)に新温泉として開業されました。昭和2年(1927年)、賢治は花巻農学校の教え子で遊園地の造園主任だった富手 一に頼まれ花壇の設計や庭造りを指導しました。現在、賢治設計の南斜花壇はバラ園に変わり、紅葉館前にあった日時計花壇は園内に移されています。

台川・釜淵の滝

概要
農学校の教師をしていた賢治は、生徒を連れて野道を歩き、川をさかのぼって釜淵の滝あたりまで、地形や岩石などを調べる野外授業に出かけていました。作品「台川」では、授業の中での生徒たちの心の動きや、自然との交感が生き生きと描かれています。現在は周辺を散策できる遊歩道も整備され、名勝「イーハトーブの風景地」として国から指定を受けています。

羅須地人協会の建物

概要
この建物は明治45年(1912年)に賢治の祖父が建てたもので、もともとは「雨ニモマケズ」詩碑がある下根子桜(現在の桜町)にありました。賢治はこの建物で稲作指導や肥料設計等の農事相談に奔走しながら、農民講座やレコードコンサート、器楽演奏を楽しみました。この建物は世界のまことの幸福を願った賢治の活動拠点であり、創作活動の場でした。見学などのお問い合わせは県立花巻農業高等学校にお問い合わせください。

三月碑

概要
平成18年(2006年)、「石鳥谷賢治の会」では賢治生誕110年を記念して、賢治が石鳥谷町内で行った肥料相談の様子を描いた作品「三月」の詩碑を建立しました。現在、肥料相談が行われた建物は残っていませんが、写真で見ることができます。

葛丸川渓流

概要
大正7年(1918年)、盛岡高等農林学校研究生であった賢治は、稗貫郡地質及土性調査のために、大瀬川・葛丸川上流を歩いて回りました。この時の体験が、童話「楢ノ木大学士の野宿」や短歌「葛丸」の背景になっていると考えられています。ここ葛丸ダム湖畔では、毎年10月に賢治を偲ぶ賢治葛丸祭が開催されています。

石鳥谷肥料相談所跡

概要
昭和3年(1928年)3月15日から1週間、賢治の愛弟子であった菊池信一が世話役となって、肥料相談所が開設されました。「塚の根肥料相談所」と呼ばれたこの相談所で、賢治は個別の相談と講演を繰り返し行い、毎日大盛況であったといわれています。

早池峰と賢治の展示館

概要
賢治は盛岡高等農林学校の研究生の頃、稗貫郡内の地質・土壌調査のため大迫を訪れています。それから度々大迫を訪れ、早池峰山にも数回登山したといわれています。花巻農林学校教師時代には、早池峰山をテーマにした詩「山の晨明に関する童話風の構想」を作っています。

早池峰山

概要
賢治は大正7年(1918年)に盛岡高等農林学校研究生として「稗貫郡地質及土性調査」に携わるため早池峰山に登り、この山に関する多くの作品を残しています。また、賢治は早池峰山を「経埋ムベキ山」の一つとして「雨ニモマケズ」の手帳に記しています。

旭ノ又小学校跡

概要
大正5年(1916年)に20坪の教室一つと12.5坪の控所、同坪の教員住宅からなる火ノ又分教場という分校が新築されました。この分教場は、童話「風の又三郎」に登場する「谷川の岸の小さな小学校」の有力なモデル地の一つとして考えられています。

土沢駅

概要
賢治は土沢の縁日を題材にした詩「冬と銀河ステーション」を作っています。この詩に詠われた賑やかな「土沢の冬の市日」は当時、町の中心部の道路沿いで開かれていました。

成島三熊野神社

概要
「文語詩稿」詩「祭日(二)」で詠まれている毘沙門像は平安時代に安置されたといわれています。この像はケヤキの一本作りで、高さが4.7メートルあり、像が収められている毘沙門堂とともに国の重要有形文化財に指定されています。

丹内山神社

概要
昔、丹内山神社は丹内権現と呼ばれ、例大祭ともなれば大変にぎわったといわれています。いまでも、秋の例大祭には一ノ鳥居から四ノ鳥居までの約1キロメートル余りにわたって幟がはためき、当時のにぎわいをしのばせます。

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