大迫小学校百年記念誌より
大迫小学校百年記念誌より
思い出
私は大正8年から昭和12年まで、引き続き20年間大迫小学校に勤務させていただいた。そのうちでも「ダルトンプラン」の教育法を施行した頃のことが一番印象的だ。
「ダルトンプラン」などという言葉は、もう大迫の人たちから忘れられようとしている。当時の校長、菅原隆太郎先生の主唱のもとに、従来の画一教育をがらりと変えて、ダルトンプラン方式による学習を始めたので、県下教育会に多大の旋風を巻き起こした。その根拠は、子供の能力と個性に応じて伸ばしてやりたいとの念願から、5年生以上高等科まで、毎日3時間、学年を開放し、各学科ごとの研究室に自由に出入りし、1週間ごとの各科指導案による自由研究をすることにした。
従前は毎週、国語は何時間、数学は何時間と定められてあるので、児童は得意な学科は3時間単位のものを2時間でもできるのに足踏みをせねばならず、また不得意な学科の場合は、決められた時間ではどうしてもやり得ない者もあった。そこでこれらを開放して自分で時間配分をし、学科は短時間で終え、余った時間を不得意な学科、むずかしい学科にまわしてやっていく方式をとったわけであった。所謂自由教育である。
これに踏み切るには幾多の準備期間があった。大正8年5月、菅原先生を東京都柳北小学校首席訓導から郷里へ迎えた。そして大正9年、菅原校長は2週間にわたり東京成城自由学園に留学、続いて大正12年には、衣更着、大信田、梅津、佐々木直の4教員が同園に留学、小原國芳先生(現玉川学園学長)のご指導を受ける。地元でも大正11年、13年の2回、小原先生の教育講習を開き、教員のみならず一般の町民も受講した。こうして学校当局と町民の理解のもとに、大正14年4月から思い切って新教育の実施に踏み切った。
教材も不足、参考書もろくにないときにあえて断行したのでなかなか大変だった。町内各戸から役に立つような参考書の寄付を求め、まがりなりにも始めた。同年5月には県教育会の使命によって実施の状況を、学校を代表して私は県教育総会の席上で発表した。
その後、実施の状況を視察する参観人は次から次へと訪れ、賛否両論のうずを巻いた。遠く沖縄の先生方も来られたのは忘れ得ぬ語りぐさである。
子供達はそれぞれ研究の結果を各学科担任の先生方に見てもらい、各自の進度表にサインしてもらう仕組み、こうして6年間つづけられた。昭和7年3月、菅原先生は盛岡桜城小学校長に栄転され、ついにこの教育法もピリオドを打つことになった。今や40年の昔の物語となってしまったが、思い出してなつかしく感じられてならない。
衣更着 大心(元大迫小学校長)
私の学んだ小学校
授業参観の先生方
そのうち、いつ頃からだったでしょうか。授業参観の訪問客が多くなりました。どの部屋にも毎日、2,3人のお客様が絶えず見られるようになりました。私どもの参考書選び、読書、実験、ディスカッション、先生に聞く、結果を先生に見ていただいて自分の考えを発表する、それらを熱心にメモしてご覧になっています。お客様は毎日違う方なのだけれど、みな、よその学校の先生です。「まわりの目上の方から教えを受けるのだ」との癖のついている私たちは、読めないところや不審な箇所を、上級生から聞くよりも、またたったひとりの先生に聞くために順番を待っているよりも、すぐそばでご覧になっているお客様に伺った方がよいと言うことを知りました。そして、
「これは、なんと読むのですか」
「こう書いてあるのは、こういう訳ですか、こういう意味なのでしょうか」
いろんな質問をぶつけていきました。観るつもりで立っていた脇の下から子供に問われて、顔を赤くして後ろへ下がる女の先生もありました。
「ああ、それを調べるならね、どれどれ、こっちの本が・・・・。」
なんて参考書を選んできて、先生の方が楽しげで、熱心に相手をしてくださることもありました。
だんだん私たちもずるくなり、朝、お客様が何十人も校庭に入っていらっしゃるのを見ると、きょうは勉強、うんと進められるな、と思い、その日は質問・討議の必要な教科に入ります。そこで参観者を利用して念入りに話し合いができるものですから、そんな日は教室いっぱいが特に活気にあふれ、熱っぽい空気に包まれていたものでございます。子供自身も、いかにも十分な勉強がやれたな、という満足感が味わえたものでございました。
直人先生だったでしょうか、大信田先生からだったでしょうか、
「よその先生にいつも授業を参観されているのは、岩手県では附属小学校だけなのだが、今では大迫小学校の方が多くなった。来られた方は、ここの生徒の方が生き生きとして立派な勉強をしていると褒めていくよ」と聞かされて、いい気になったものでした。
後藤 ミネ(大正14年卒業 元大迫小学校教員)
ダルトンプランのころ
ダルトン・プランによる教育と言っても、低学年と修身とか、体操、音楽などの学習は普通の学校とあまり変わりはない。ほかと違うのは、尋常科の5年以上になると、毎日3校時と4校時に「自由研究」という時間が設けられることだ。
この時間になると学級ごとの教室が解体され、国語・算術・地理・歴史・理科の5教科の教室が特定される。先生が教科担任になり、尋常科5年、6年、高等科1年、2年の4個学年が入り交じって活動することになる。
教科ごとに1週間分の課題が前週末に学年ごとに示される。この課題を子供自らが計画を立て、今日は地理、明日は歴史というように課題解決をする。
子供達は参考書を持ってきたり、友達同士でしゃべり合いながら、時には先輩から聞いたりしてノートに整理していく。できあがった子供は教科の先生にノートなどを持っていくと、先生は子供の理解の程度を発問しながら確かめ、よくできていればV・Gなどとサインしてくるし、各人の持っている進度表に第何週分が完了したことを記入してくれる。この進度表がそのまま通信簿にもなるもので、成績判定の欄に甲・乙・丙の評価がつけられるようになっていた。
ところで、ひとりの教科担任の先生が、5年生から高等2年までの子供を、しかも個別に学習の理解度を見てやらなければならないのだから大変なことだったであろう。ことに、どこにもある頭の弱い子、ついていけない子達には、とても手が回らないのは当然のことであろう。
このことについては、各学年から該当の子供を選別して特別の学級を編成し、校長先生自ら担任されたことを覚えている。今日の特別支援学級の先駆であろう。
このように先生方が努力されても、悪童どもは、貴重な2時間の自由研究の時間を、教室をぐるぐる回るだけで終わってしまうと言うこともないわけではなかったようである。批判はあったであろう。それでも、当時のことを思い出してみると、現代の学校には見られない非常にすぐれた本質的なものがあったように思われてならない。学習するのは子供自身なのだ、という当然の原理を土台において、子供は伸びるんだ、と常に信頼感を持って子供達の自由な活動を見守ってくれている学校。
この大迫小学校の「こころ」が、多くの卒業生達に影響を与えていると信じている。
阿部 恭(昭和8年高等科卒業 岩手県東京事務所長)
在職中の思い出
菅原隆太郎校長先生時代の職員は地元の人たちが大部分で、長年勤続の方が多かった。そして職員の給与は町からの支給であり、滞納の多いときなど半年以上も支給にならないときもあったが、地元出身の先生方だからこそなんとか生活できたのであって、今考えればのんきな話だがやはり世の中が古き良き時代であったせいもあるだろう。
校長先生はそのことを大変気の毒がられ、先生方は授業に専念できるようにと事務的なことは率先して処理された。夕方も常に遅くまで残って校務をとっておられ、私たちはたいていお先に失礼して帰ったものだ。先生は温顔で物静かに話される方で、強い信念を持った勉強家であられた。後年、職員室は最初の私の2年生担任の時の教室に移った。職員室の廊下側に職員の図書戸棚があり、教育図書の他に文学図書等も多くあったが、いつも事務の合間には読書をされていた先生の姿が印象にある。
先生は東京の小学校に長年勤められたので標準語で話され、その弁舌はなめらかできれいであった。朝礼の時のお話も諄々と諭されるような話しぶりで、今でも頭に残っているのは「百尺竿頭一歩を進めよ」という言葉で、これは先生の処世哲学であったと思う。もう一人東京弁の持ち主は、東京の奉公先から帰ってきたばかりの小使いの中田敬蔵さんで、ダルトンプラン見学のための参観の先生方が多く見えられたが、その案内役や時には説明役までやっていたものだ。「先生お電話でございます」と丁重な取り次ぎを受けたことを思い出す。
川村 倫子(元大迫小学校教員)
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