宮沢賢治の年譜

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ページ番号1003946  更新日 令和6年4月1日

宮沢賢治略年譜

明治29年(1896年)0歳

8月27日、父政次郎、母イチの長男として花巻川口町(現花巻市豊沢町)に生まれる。当時家業は質・古着商。弟妹は、トシ、シゲ、清六、クニ。仏教篤信の家庭環境で育ち、幼い時より経文に親しむ。

明治36年(1903年)7歳

町立花巻川口尋常高等小学校に入学。

明治38年(1905年)9歳

小学校3年生。担任の八木英三先生から、五来素川翻案、エクトール・マロ原作「家なき子」や、「海に塩のあるわけ」などの童話や民話を読み聞かされる。

明治39年(1906年)10歳

小学校4年生。父の始めた「我信念講話」に参加。この頃、鉱物、植物、昆虫採集、標本作りに熱中。

明治40年(1907年)11歳

小学校5年生。担任はクリスチャンの照井真臣乳(まみち)。鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」と呼ばれる。

明治41年(1908年)12歳

小学校6年生。綴り方「遠方の友につかはす。」「皇太子殿下を拝す。」を書く。

明治42年(1909年)13歳

2月:綴り方「冬季休業の一日。」を書く。
3月:花城尋常高等小学校卒業、成績優等で「高等小学読本」などを与えられる。
4月:県立盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)入学。寄宿舎自彊寮に入る。鉱物採集に熱中。HELPのあだ名がつく。

明治43年(1910年)14歳

中学2年生。
6月:博物教師に引率されて岩手山に初めて登る。そのとき岩手山に魅せられ、後年たびたび登山するようになる。
9月:同室の親友藤原健次郎が病死する。

明治44年(1911年)15歳

中学3年生。哲学書を愛読。短歌の創作開始。教師への反抗的態度が見られる。
8月:盛岡市北山、願教寺の「仏教夏期講習会」にて島地大等の法話を初めて聴いたと思われる。

明治45年、大正元年(1912年)16歳

中学4年生。
5月:仙台方面へ修学旅行。初めて海を見る。一人菖蒲田に行き、病気の伯母平賀ヤギを見舞う。
この年、「歎異鈔」を読み感動する。

大正2年(1913年)17歳

中学5年生。
3月:舎監排斥の動きにより全員退寮させられ、賢治は盛岡市北山、清養院(曹洞宗)に下宿する。

大正3年(1914年)18歳

3月:盛岡中学校卒業。
4月:肥厚性鼻炎手術で岩手病院に入院。手術後発疹チフスの疑いのある高熱のため再入院。入院中、賢治は片思いの初恋をする。
5月末退院。
9月(推定):島地大等編「漢和対照妙法蓮華経」に感銘。家業を手伝いながら高等農林学校受験準備。

大正4年(1915年)19歳

1月、盛岡市北山の教浄寺(時宗)に下宿。盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農学科第二部に首席で入学。寄宿舎自啓寮に入る。土曜、日曜は登山、鉱物標本採集。

大正5年(1916年)20歳

盛岡高農2年生。
3月:修学旅行で東京、京都、奈良の農事試験場を見学。特待生に選ばれ授業料免除となる。
7月:関教授の下で盛岡地方の地質の調査。
7月末:上京してドイツ語講習を受ける。
9月:関教授の下で秩父地方の土性地質調査見学に参加。

大正6年(1917年)21歳

1月:家の商用で上京。
3月:再び特待生となり、旗手を命ぜられる。『校友会会報』に筆名「銀縞」で短歌「雲ひくき峠等」を発表。
4月:盛岡中学に入学した弟清六と盛岡市内に下宿。
7月:小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と同人誌『アザリア』を創刊。短歌「みふゆのひのき」、短編「『旅人のはなし』から」などを発表。
9月16日:祖父喜助亡くなる。

大正7年(1918年)22歳

父と卒業後の進路について対立。
2月:『アザリア』に断章「復活の前」を発表。親友保阪嘉内が、退学処分となる。得業論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」提出。
3月:盛岡高等農林学校卒業。
4月より研究生となる。徴兵検査、第二種乙種、徴兵免除となる。
6月末:肋膜炎となり一カ月静養する。童話の制作を始める。『アザリア』に短編「峯や谷は」を発表。
8月:童話「蜘蛛となめくじと狸」、「双子の星」を家族に読んで聞かせる。
12月:妹トシ入院との報せで母と上京。翌年3月まで滞在。

大正8年(1919年)23歳

東京で人造宝石の製造販売の職業を計画するが、父の反対にあう。萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会い感銘を受ける。
3月:退院したトシと共に帰郷。家事に従事。浮世絵版画の収集を始める。無署名「手紙」を配る。

大正9年(1920年)24歳

5月:盛岡高等農林学校研修生修了。関教授からの助教授推薦の話を辞退。短編「猫」「ラジュウムの雁」を書く。夏には短編「女」を書く。
11月:国柱会信行部に入会。父にも改宗をせまる。

大正10年(1921年)25歳

1月:無断で上京。国柱会本部で高知尾智耀に会う。本郷菊坂町75稲垣方に下宿。文信社の校正、筆耕の仕事に就きながら街頭布教や奉仕活動をする。
4月:上京した父と関西旅行。
8月:トシの病気の報に帰郷。
9月:『愛国婦人』に童話「あまの川」を掲載。
12月:稗貫郡立稗貫農学校(のちの県立花巻農学校)教諭に就任。『愛国婦人』に童話「雪渡り」を発表。稿料5円を得る。「竜と詩人」、「かしはばやしの夜」、「鹿踊りのはじまり」、「どんぐりと山猫」、「月夜のでんしんばしら」、「注文の多い料理店」、「狼森と笊森、盗森」など多くの童話を創作。

大正11年(1922年)26歳

1月:心象スケッチ「屈折率」、「くらかけの雪」を書き、『春と修羅』制作開始。「水仙月の四日」創作。
5月:「小岩井農場」を書く。
8月:「イギリス海岸」を書く。
9月:生徒6名と岩手山登山。農学校の生徒「飢餓陣営」を上演。
11月27日:妹トシ死去。「永訣の朝」、「松の針」、「無声慟哭」を書く。

大正12年(1923年)27歳

1月:上京し、弟清六に童話の原稿を出版社に持ち込ませるが断られる。
4から5月:『岩手毎日新聞』に詩「心象スケッチ外輪山」、童話「やまなし」、「氷河鼠の毛皮」、「シグナルとシグナレス」を発表。国柱会機関紙『天業民報』に詩「青い槍の葉」他を発表。
この年、「土神と狐」(推定)を書く。

大正13年(1924年)28歳

2月:童話「風野又三郎」の原稿筆写を教え子に依頼。「空明と傷痍」を書くことにより詩集『春と修羅』第二集の作品が始まる。
4月:心象スケッチ『春と修羅』(関根書店)を自費出版。
5月:生徒と北海道修学旅行。
7月:辻潤が『春と修羅』を賞賛。
8月:農学校生徒と「飢餓陣営」、「植物医者」、「ポランの広場」、「種山ケ原の夜」を上演、一般公開。
12月:イーハトーヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。「銀河鉄道の夜」初稿成立(推定)。

大正14年(1925年)29歳

1月:三陸旅行。
2月から森佐一、7月から草野心平と交わり、森編集『貌』、草野編集『銅鑼』に詩を発表。
8月:森佐一らと花城小学校で開かれた詩の展覧会に作品出品。
11月:東北大学の早坂一郎博士をイギリス海岸に案内してバタグルミ化石を採集。
12月:「冬(幻聴)」を発表。岩手日報に変名にて「法華堂建立勧進文」発表。

大正15年、昭和元年(1926年)30歳

1月から3月にかけて、尾形亀之助編集『月曜』に「オツベルと象」、「ざしき童子のはなし」、「寓話猫の事務所」を発表。
3月末まで岩手国民高等学校で農民芸術論を講義。
3月31日:花巻農学校を依願退職。
4月1日より花巻町下根子桜で独居生活を開始。
5月:開墾や音楽の練習、レコードコンサートを始める。この頃より町内や近郊に肥料設計事務所を設け、肥料相談や設計を始める。
8月:土曜に近所の子供に童話を読み聞かせる。妹クニらと八戸旅行。
羅須地人協会を設立し、11月頃から定期的に集会をもつ。
12月:チェロを持って上京。上野図書館やタイピスト学校で勉強。オルガン、チェロの練習、エスペラントを学習。29日、帰郷。

昭和2年(1927年)31歳

1月:『無名作家』四号に詩「陸中国挿秧之図」を発表。羅須地人協会で講義。
2月:『岩手日報』に羅須地人協会の記事が出て、社会主義運動との関係を疑われ、警察の事情聴取を受ける。
9月:『銅鑼』に「イーハトーブの氷霧」を発表。
12月:盛岡中学『校友会雑誌』に詩を発表。花巻温泉南斜花壇を作る。この頃までに肥料設計図二千枚を書く。

昭和3年(1928年)32歳

2月:『銅鑼』に「氷質の冗談」を発表。
3月:『聖燈』に「稲作挿話」(未定稿)を発表。稗貫郡石鳥谷で肥料相談に応じる。
6月:東京で浮世絵や演劇鑑賞。伊豆大島旅行、「三原三部」を書く。日照りで稲作指導に奔走。
12月:急性肺炎になる。

昭和4年(1929年)33歳

病臥続く。
4月:東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪、以後交際が始まる。病床に中国の詩人で、陸軍士官学校生が訪問。高等数学を勉強。

昭和5年(1930年)34歳

病状やや回復し、園芸に熱中。
9月:陸中松川の東北砕石工場を訪問。
10月:「まなづるとダァリア」の校訂が終わる。
11月:『文芸プランニング』に詩「遠足許可」等四編を発表。

昭和6年(1931年)35歳

2月:東北砕石工場技師となり、宣伝販売を受け持つ。
7月:『児童文学』第1冊に童話「北守将軍と三人兄弟の医者」を発表。
8月頃:「風の又三郎」の執筆進む。
9月:教え子の沢里武治に「風の又三郎」<どっどどどどう>の歌の作曲を依頼。20日、石灰宣伝で上京中に発熱、遺書を書く。28日、帰郷、自宅で病臥。
11月3日:手帳に「雨ニモマケズ」を書き留める。

昭和7年(1932年)36歳

3月:『児童文学』第2冊に「グスコーブドリの伝記」を発表。挿絵は棟方志功。
4月:仙台在住の民俗学者佐々木喜善が来訪。
8月:『女性岩手』創刊号に文語詩「民間薬」、「選挙」を発表。
11月:『女性岩手』に「祭日」、「母」、『詩人時代』に「客を停める」を発表。

昭和8年(1933年)37歳

3月:『天才人』に童話「朝に就ての童話的構図」を発表。
4月:『現代日本詩集』に「郊外」、「県道」を発表。
7月:『女性岩手』に「花鳥図譜七月」を発表。
8月:病状悪化にもかかわらず農民の肥料相談に応じる。
9月21日:法華経一千部を印刷して知人に配布するよう父に遺言して、午後1時30分死去。
9月23日:安浄寺(浄土真宗大谷派)で葬儀。法名「真金院三不日賢善男子」

昭和26年7月、身照寺に改宗。

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