賢治と農民

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ページ番号1003948  更新日 平成31年1月18日

賢治は宮沢政次郎・イチ夫婦の長男として生まれました。そのころの家業は質屋・古着屋でした。しかし、この家業が、後の賢治の心に重苦しい負担となって残りました。
高等農林学校を卒業後、しばらくして花巻農学校の教諭になったときから賢治と農民との直接の関わりが始まりました。花巻農学校内に開設された岩手国民高等学校で、農民芸術という科目を担当したことから、自ら農民の中に入っていくことになります。そして、担当した農民芸術の講義の内容がほぼそのまま「農民芸術概論綱要」となりました。概論の冒頭で賢治は「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい」と言っています。
賢治は農学校の職をやめ、下根子桜(現花巻市桜町)の別荘で一人きりの自炊生活を始めるとともに、「本統の百姓」になるため自ら畑を耕しはじめました。その賢治のまわりに近くの農家の青年やかつての教え子が集まってきて、レコードコンサートを開いたり、器楽合奏をしたりしました。この集まりが「羅須地人協会」のはじまりです。賢治は、農事講演や肥料相談のため、近くの村々をまわったり、協会の建物で農業や芸術の講義をしました。
賢治は「農民芸術概論綱要」を通じて、農民の日常生活を芸術の高みへ上昇させようと試みたのです。しかし集まってくる若者を除いて、一般の農民の反応は冷やかだったと言われています。この「羅須地人協会」の活動は、昭和3年に賢治が「両側肺浸潤」の診断を受け、豊沢町の実家で療養生活を余儀なくされた時に終わりを告げました。

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