賢治さんが大迫小に来た日
賢治さんが大迫小に来た日
その日は大正13年(1923)2月20日
ダルトンプランを実施した本校第12代校長、菅原隆太郎先生は昭和38年(1963)2月に85歳で亡くなりましたが、生前に記録していた日記に、以下のような記述が見つかりました。
○菅原隆太郎先生の日記より(大正13年(1923)2月20日分)
10時頃、関博士に同行された宮沢さんがみえた。私のしたっている方だ。
ぜひ私の授業を参観したいと言われた。やむを得ず、国語をお目にかけた。
隠すことはいらないと思って、後で「いい、いい」と言われるのには汗が出た。
上の日記にある「宮沢さん」とは、間違いなく宮澤賢治さんのことだろうと言われています。それは、以下のような理由からです。
隆太郎先生の遺品には、賢治さんの「注文の多い料理店」「春と修羅」初版本が見つかっており、隆太郎先生と賢治さんには親交があったと思われること。(初版本は親しい人に贈ることが多い。ちなみに賢治さんが生前に出版した本はこの2冊だけ。あまり売れなかったと言われている。)
関博士とは賢治さんの盛岡農林高等学校の恩師であり、賢治さんが卒業後に稗貫地方の土質調査を行ったときの指導者でもある。その関博士が前日(2月19日)に大迫で土質学講話を行い、大迫に宿泊したことがわかっている。当時、関博士は東京にいたため、賢治さんが大迫に同行して前日は大迫に泊まっていたと考えられること。
当時の賢治さんは稗貫農学校の教師をしていた。稗貫農学校には大迫尋常高等小学校(現在の大迫小)の卒業生も入学しており、隆太郎先生とは顔見知りであったと考えられること。ちなみに、1923年は大迫小学校のダルトン・プラン開始の年であり、それ以前から図書館の整備やオルガンの設置など先進的な取り組みをしていた大迫小に、賢治さんは教師としてとても興味があったのではないかとも思います。また、隆太郎先生も「した(慕)っている」と書いていることから、賢治さんを高く評価していたことがわかります。
結論・・賢治さんが大迫小に来た日は、大正13年(1923)2月20日。
10時頃、賢治さんは大迫小に来て、隆太郎校長先生に「ぜひ授業を見せてほしい」とお願いした。隆太郎先生は、仕方なく、「隠すことはない」と思って普段通りの国語の授業を見せた。授業を見た賢治さんが「いい、いい」と褒めるので、隆太郎先生は恥ずかしくて冷や汗が出たそうだ。
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