亀ヶ森城
亀ヶ森城(おおはさま物語ほか)
中世の大迫地方を支配した一方の雄が大迫氏なら、もう一方の雄は亀ケ森城に居城した同じ稗貫氏の一族の亀ヶ森氏である。亀ヶ森城は八幡館とも呼ばれ、中興寺の裏山一帯を指している。この城は中世の山城の形態を残しながらも、近代的な要素も合わせ持つ平山城である。東と南側を空堀と木柵で幾重にも防御し、北と西側には天然の急斜面を生かした防御方法がとられている。城の東側の沢は、昔は水堀が巡らされていた跡といわれ、明らかに人工的に沢の幅を拡張している。この沢は乱闘があった場所であるために、「乱闘沢」とも呼ぼれたという。
二の丸にあたる場所には、天喜年中(1053~57)に八幡太郎義家が、安倍貞任を追ってこの地を通過の際に、背負っていた矢を降ろして立て掛けたという伝説をもつ「矢立の杉」が残っている。
亀ケ森城の東方には城下町が出来ていて、三の日(三日ごとともいう)に市が開らかれていたという場所が、今の三日市という地名に残っている。また、その当時の士族が居住していた上家敷、町人の鍛冶屋敷、宿屋の跡であつたという上宿、中宿、下宿の名が今も残っている。そのほか、この地方が水田耕作の適地かを調べたという、一枚田という場所も城の入口付近にある。
大迫地方の城主は主家に逆らうのが好きだったらしく、弘治三年(1557)三月に亀ヶ森図書光広も稗貫氏に反旗をひるがえしている。時の主家であった稗貫為嗣は大いに怒り、家臣の槻木下総守光治、矢沢右近春眞に命じて、亀ヶ森氏を討つために軍を出したが、図書光広はよくこれを防いで、逆に槻木光治を討ち取って戦いに勝利している。
結局、この城は南部領の他の豪族の城や次々と取り壊される中で、かなり長い間壊されずに残っていて、慶長六年(1601)亀ヶ森玄蕃が斯波一味を取り逃がして、領地没収をされるまで存続していた。
亀ケ森城にも大迫城と同じく廃城につきものの金鶏伝説や漆万杯伝説などが残っている。また、城が落城したときは、十二月三十日であったため、年越しの門松は、三木のくいを取って来て、一本は横に渡し、残りの二本に結わえただけで済ませたので、いまでも亀ヶ森地方の門松は簡素なものであるという。
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