亀ヶ森玄蕃
亀ヶ森玄蕃(亀ケ森村誌抄)
亀ヶ森城の最後の城主は亀ヶ森玄蕃(げんば)という。玄蕃は亀林山中興寺を城内に勧請し、領内の開田に力を入れるなどしていたが、大迫右近と同じく、天正十八午(1590)主家稗貫氏の没落とともに、所領を没収されてしまった。しかし、右近が九戸政実の乱に一味し、江刺の人首に逃れて行ったのに対し、玄蕃は一族の亀ヶ森能登嘉明とともに、稗貫氏の未亡人で絶世の美女といわれた、稗貫御前を南部信直のもとに入れ、稗貫氏の再興を図った。しかし、これも信直の死によって果たせなかった。その後、玄蕃、能登ともに南部氏に仕え、玄蕃は亀ヶ森の所領七百石を回復した。
また、玄蕃は慶長五年(1600)の関ケ原の合戦によって奥州の各地でも引き起こされた、和賀、稗貫氏の旧家臣による反乱にも味方せずに、亀ヶ森の域を守っていたために、後に南部利直に称賛されている。しかし、亀ヶ森氏の支配も長く続かなかった。
慶長六年(1601)の春のことである。
亀ヶ森氏領の北側にあたる志和地方の旧領主であった斯波孫三郎は、天正十八年に領地を没収されて以来、浪々の身となって所どころを隠れ歩いていたが、っいに志和領に立ち帰り、譜代の家臣とともに謀反をくわだて、志和の長岡の城に入ろうとした。しかし、家臣のうち貝志田与総という者は、この策略に乗らず、謀反の計画を南都利直に報告し、自らは長岡城の域門を堅く閉じて孫三郎らを入れなかった。
しかも、南部勢もまもなく駆けつけると聞いて、孫三郎の計画はことごとく敗れてしまい、やむなく大ヶ生の奥に退いた。けれども、すでに関ヶ原の戦も終わり、時代は徳川太平の世となっては、周囲の人たちも自らの身の上を考えて、味方する者もなく、次第に力を失い閉伊に逃れようとした。
利直はこれを聞いて、亀ヶ森玄蕃を呼び、
「近日、斯波孫三郎一味の者どもが、閉伊に逃げようとして、必ずお前の領内を通り過ぎるであろう。油断なく必ずこれを打ち取れ」
と命じた。玄蕃は、
「わかりました」
と了承して城に立ち帰り、野田の天神の北に幕を打って本陣とした。そして、その通過をいまや遅しと待ち受けたのである。予想どおり、斯波孫三郎と主従十三騎は、大ヶ生より遠山、赤沢を経て、佐比内を過ぎ、野田の天神の辺に駆けて来た。いよいよ敵が迫り来るに及んで、
「それ、討ち取れ!」
と命令しようとした。しかし、玄蕃一族には簗川筑前という家老がいて、日頃から玄蕃との仲が悪く、お互いにその隙をうかがっていた時でもあったので、家臣が残らず駆け出たなら、筑前は本城を乗っ取るかも知れないと疑い、一瞬命令をためらった。
その隙に、斯波孫三郎一行は難なく大釜の長根路を駆け抜け、蟹沢辺まで逃げ延びてしまった。玄蕃はついに絶好の機会を逃してしまったのである。利直はこれを聞いて大いに立腹し、
「玄蕃は斯波孫三郎に一味するものと見える。そうでなければ、手の内の敵を逃すことがあろうか」
と言って、玄蕃を中野造酒に預けた。
ついに、亀ヶ森の城及び七百石の所領を没収されることになった。玄蕃は南部勢が亀ヶ森城に攻めて来るにあたって、一時これに手向かいしようとしたけれども、時の流れを悟って、城を逃れて亀ヶ森の中央北側にある古名「師老の森」を膝行し、辛うじてその山中の佐比内字井戸桁に隠れたので、この後、里人はこの森を「膝立森」と称して伝えたという。今でも佐比内には、この玄蕃の子孫を名乗る高橋姓の家があると伝えられている。
また、玄蕃が野田の天神に幕を打って、斯波孫三郎を打つ本陣としたところは、「幕内沢(まくりざわ)」という地名となって残ったという。
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