花巻城跡散策
花巻城と城下の発展
花巻城はその前身を鳥谷ヶ崎城といい、稗貫地方(現在の花巻市、石鳥谷町、大迫町、東和町の一部)を治めた稗貫氏の居城でした。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きのおり、稗貫氏は領地を没収され、この地は南部氏の領有となりました。
近年の発掘調査の成果から、16世紀末から17世紀初頭に石垣の構築、土塁・掘割の強化など大幅な改修が加えられたことがわかっており、南部氏の領有となって間もない頃に旧鳥谷ヶ崎城から花巻城へと姿を変えていったものと考えられています。
花巻城の構造
南北に約500メートル、東西で最大700メートル以上あり、総面積は、約20万平方メートルを超える威容を誇ります。
奥羽山脈から東にのびる段丘の突出部分を利用した城で、下位の段丘面との比高は約12メートルほどあります。
周辺には北上川及びその支流である豊沢川、瀬川、猿ヶ石川が流れていて、花巻城は天然の要害であると共に水運の要所でもありました。
城の概要
城は本丸、二之丸、三之丸の三廓によって構成され、本丸には藩主が宿泊する御殿と城代以下の役人が詰める御用の間がありました。
二之丸には、八通り(和賀稗貫二郡の北上川筋にある8地区)の年貢米を収納する土蔵がありました。
八通りの総石高は約8万石で、藩全体でもおよそ26万石(表高10万石)でしたから、藩内でも屈指の穀倉地帯でした。
この年貢米は江戸に向けて川船で運搬され、河川工事の普請奉行は花巻に置かれていました。
三之丸には武家屋敷が軒を連ねていました。 盛岡藩は南の仙台藩と藩境を接しているため、花巻城が警備のための駐屯基地の役割を担いました。
武家屋敷は三之丸のほかに、中小路や御田屋小路など城南にもあり、奥州街道沿いには吹張御組、向御組など下級武士の屋敷が配されていました。
城下の繁栄
軍事上の重要拠点であり、藩の財政を支える米所の管轄もおこなった花巻城は、舟運・陸運(城下に駅所が置かれていました)の便がよく、城下には一日市・四日町・八日市(のち川口町)と呼ばれる定期市が開かれました。裏町には、大工町・鍛治町などの職人町もつくられました。
また、参勤交代が制度化されると街道の整備も進み城下は史代に宿場町として栄え、盛岡藩はもとより八戸藩や松前藩藩主一行などの宿泊地となりました。
このように、花巻城及びその城下は、藩政時代において町人口5千人を数え盛岡に次ぐ第二の都市として繁栄を遂げることとなりました。
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