「大迫が生んだ教育者・青木逸民と菅原隆太郎」展(平成28年12月3日から平成29年1月29日)

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ページ番号1008066  更新日 平成31年2月22日

大迫が生んだ教育者・青木逸民と菅原隆太郎 展

花巻市共同企画展・ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~

会期

平成28年12月3日から平成29年1月29日まで

紹介する先人

青木逸民(あおき・いつみん)

大迫地域ゆかりの教育者で盛岡藩の藩校「明義堂」及び「作人館」において医学助教として活躍した

藩政時代、大迫町の青木家は代々医者を業とする家系で、藩の御役医を勤めるほどの名家でした。逸民は、家業のほか漢学者としてもよく知られ、南部の三学者の一人に数えられています。
逸民は、文政元年(1818)に気仙郡(現釜石市)の大迫青木家の分家に生まれました。本家である大迫青木家に跡取りがいなかったため、天保11年(1840)24歳の時に養子に入り、恭伯を名乗っています。
恭伯は盛岡藩の御役医として、安政元年(1854)に盛岡藩校・作人館の前身の明義堂で医学を教え、後に藩校・作人館でも医学助教として活躍しました。明治元年(1868)、作人館は戊辰戦争のため休館を余儀なくされますが、当時の学問熱に促されるように明治3年(1871)1月に再開。恭伯も再び医学助教として勤めています。
しかし、盛岡藩の廃藩に伴い、同年10月には作人館は廃校となり、恭伯は大迫へと戻りました。以後は、逸民と称し、また、積翠と号して漢詩作などに励み、大迫で私塾を開いて多くの子弟を育てました。
また、産業振興にも取り組み、大迫町台地区の開田を計画し、私費を投じて内川目村立石(現大迫町内川目立石)から水路を築きました。開田計画は町場住民の反対により実現しませんでしたが、この水路の跡は「青木堰」として今も残っています。
明治25年(1892)4月20日、76歳で逝去。死後、師を偲んで門人60余名が菩提寺の到岸寺に顕彰碑「青木逸民之碑」を建立しました。しかし、この石碑は明治40年(1907)の川原町大火によって亀裂が入り、その後の地震で倒壊してしまいました。以来、10数年そのままになっていましたが、再び門人たちが資金を集めて大正13年(1924)9月に同地に再建しています。

菅原隆太郎(すがわら・りゅうたろう)

大正デモクラシーの潮流の中で始まったダルトン・プラン教育を岩手県で唯一実践した

菅原隆太郎は、明治12年(1879)大迫町仲町に生まれました。幼少より学業優秀で、岩手師範学校を首席で卒業し、明治34年(1901)の大迫尋常小学校を振り出しに、盛岡高等小学校訓導などを勤め、明治42年(1909)には東京浅草の柳北小学校に移り、上席訓導として活躍しました。
その後、当時の大迫町長・岩亀半蔵の再三の招きにより、大正8年(1919)大迫小学校校長として迎えられます。菅原は着任するや、東京の成城小学校などを中心に始まった新教育運動を、大迫小学校を舞台にして実践することになります。
菅原が実践を目指したダルトン・プラン教育は、「自学自修」と訳されたように、生徒自らが興味を持ったことを、自分で学びとる能力を養うという教育方法でした。菅原は、実践するにあたって、自らの給与から多くの図書を購入し、当時は珍しかった学校図書館の設立に尽力。町も小学校のために特別の予算を組んで、備品や図書整備に協力しました。
大正12年(1923)6月、小さな山間の町で始まったダルトン・プラン教育の実践は、またたく間に全国に知れ渡ることになり、県下はもとより、遠く沖縄などからも多くの教員が視察に訪れました。賛否両論が渦巻き、多くの反響を呼んだ大迫小学校の実践は、昭和7年(1932)4月、菅原の盛岡桜城小学校へ栄転するまで続けられました。
昭和13年(1938)には、町民から請われて大迫町長を1期務め、その後は大迫の歴史や文化などをまとめた郷土資料集の刊行を目指して精力的に執筆活動を始め、岩手日報社より名著『早池峯山』を刊行しています。
昭和30年(1955)、ダルトン・プラン教育の先駆的な実践により岩手日報文化賞を受賞。昭和37年(1962)には大迫町名誉町民第1号を贈られましたが、昭和38年(1963)2月、84歳で逝去しました。

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