花巻城本丸跡内容確認調査の結果をお知らせします(令和7年度)
花巻城跡内容確認調査の概要
花巻市教育委員会では、「(仮称)花巻城保存計画」の策定に向けた考古学的情報の蓄積を目的として、花巻城跡の内容確認調査を実施してきました。この調査は、平成28年度の二ノ丸南御蔵跡での発掘調査を皮切りとし、平成30年度から令和5年度にかけては、本丸第1期調査として本丸御殿跡の発掘調査を行いました。
本丸御殿跡の発掘調査では、遺構が良好な状態で残っていることが確認され、建物の位置、規模、構造、変遷などが明らかとなっています。現存する本丸御殿絵図面と発掘結果を照合したところ、御殿建物の規模は東西約87メートル、南北約43メートルと確認されました。また、本丸御殿の遺構の下層には厚さ55~130センチメートルの整地層が存在することが分かり、その整地層の下部に確認された黒褐色土からは中世末以前の陶磁器が出土しています。これらの陶磁器は、花巻城の前身である「鳥谷崎(とやがさき)城」時代の遺物であり、この調査結果から、近世の大名である南部氏の城郭となった花巻城が、中世の国人領主である稗貫氏の居城・鳥谷崎城を基礎に、大規模な盛土工事などを通じて改修された上で築城されたことが裏付けられたのです。
令和7年度からは、本丸第2期調査の初年度として、御台所前御門跡周辺の調査に着手しました。江戸時代の複数の花巻城絵図には、下に示した『花巻御城郭図』のように、門前の枡形には石垣が描かれ、その奥に切妻屋根の単層の御台所前御門が確認できます。また、門から続く土塁の上部を描写した箇所では、東側に漆喰塀と木柵列が連続している様子、西側には漆喰塀および櫓状の建物が存在しています。今回の調査は、こうした構造物の具体的な実態を解明するとともに、未解明部分が多い本丸外周部の実像を明らかにすることを目的に取り組みました。調査期間と面積は次のとおりです。
令和7年5月19日(月曜)~令和7年11月27日(木曜)、752平方メートル
(過去の調査結果は下記のリンクをご覧ください)
- 花巻城本丸跡内容確認調査の結果をお知らせします(令和5年度)
- 花巻城本丸跡内容確認調査の結果をお知らせします(令和4年度)
- 花巻城本丸跡内容確認調査の結果をお知らせします(令和3年度)
- 花巻城本丸跡内容確認調査の結果をお知らせします(平成30年度・令和元年度)
花巻城について
花巻城は、北上川と豊沢川によって形成された河岸段丘上に築かれ、平山城に分類されます。標高は85m程度です。城の北・東・南は、標高差約15mの急な崖地形となっているうえ、北側は北上川(後に瀬川)が外堀の役目を果たす自然地形を生かした天然の要害です。
城は外堀と内堀によって、[本丸]・[二ノ丸]・[三ノ丸]の3つの曲輪(郭)に区画されます。最北部分に本丸が置かれ、本丸の南側と西側の二方を二ノ丸が囲み、さらに南側に三ノ丸が囲む梯郭式(ていかくしき)の縄張りです。
各郭の間には水堀や土塁、柵が巡らされ防御力を高めています。三ノ丸の南側と城の東側の崖下には外堀である[上堀(かみぼり)]と[下堀(しもぼり)]が巡り、外周の守りを固めています。地続きの西側は防御上の弱点ですが、巨大な[濁堀(にごりぼり)]により段丘面を断ち切っています。濁堀の掘削土は、二ノ丸西辺部に積み上げて土塁を構築したとみられ、現在でも花巻小学校敷地内などにその一部が現存しています
本丸は東西約162メートル・南北約62メートルの規模です。内部には、平場の大部分を占める大型建物の本丸御殿があり、南西隅には領内の祈願所として城内三社が祀られていました。西辺の中程には正門の西御門と南辺の中程に御台所前御門の二門が石垣で固められた枡形とともに構築されています。また、東端には菱櫓が設けられていました。
次の図は、本丸の現況地形図に、本丸御殿の位置と今年度調査で確認された御台所前御門跡の位置を重ねて示したものです。御台所前御門は、西御門が藩主専用の門であったのに対し、本丸御殿に勤める花巻御給人が出入りする通用門でした。門をくぐるとすぐ正面に、本丸御殿が建っていました。
令和7年度 発掘調査成果
1.遺構調査の結果
(1)御台所前御門跡
二ノ丸から土橋を渡って枡形(注1)に入り、右手に折れて東へ進み、突き当りを左に折れた先に、御台所前御門跡の坪地業(注2)が確認されました。
坪地業は4基検出されました。東側の主柱とみられる坪地業を[P1]、西側を[P2]と命名しました。両者はいずれも直径約170センチメートルの円形平面を持ち、本丸御殿跡で確認された坪地業よりも大きな構造を示しています。これらの坪地業は、土坑の内部に多量の礫を詰め込む構造で、本丸御殿や西御門の事例とも共通しています。また、[P1]と[P2]の間隔は、芯々で約3.2メートルに位置しています。
さらに、[P1]の北側においてやや小ぶりな坪地業が発見され、これを[P3]と命名しました。[P3]は直径約130センチメートルの円形平面を持ち、[P1]との間隔は芯々で約1.8メートルを測ります。この位置関係から、[P3]は控柱(ひかえばしら)の坪地業である可能性が高いと考えられます。一方で、[P2]の北側には明確な坪地業は確認できませんでしたが、礫が散在する範囲が検出され、この部分を[P4]と命名しました。ここでは、遺構検出面付近にまで最近のゴミが入っていたことから、撹乱されていると考えられます。[P4]の中央に南北トレンチを設定して掘り下げを行ったところ、坪地業の土坑とみられる掘り込みが確認されています。
これらの発掘結果と現存する絵図面とを照合すると、御台所前御門は主柱一対、控柱一対の礎石建ちの薬医門(注3)形式の門であった可能性が高いと考えられます。
- (注1)枡形は、城への進入路に設けられた四角い空間。門・土塁・石垣などとの組み合わせにより防御性を高め、敵の攻撃を防いだ。
- (注2)坪地業は、柱の位置ごとに土坑を掘り、石などを詰めた基礎工事の跡。本来は上に礎石が載っていた。
- (注3)2本の主柱と後方の2本の控柱で構成される切妻屋根の門。屋根が門前に張り出し、門扉が雨水で濡れない工夫が施されている。
(2)発見された石垣と構築範囲
御台所前御門の門前の枡形内部から、絵図面に描かれたとおり石垣が発見されました。残存状況は、最下部の根石列ともう一段程度が残るのみでした。しかし、石垣背面にあった裏込石の分布や石垣抜き取り溝の範囲から、枡形内部全体に石垣が巡っていたことが確認されました。また、石垣は御台所前御門を潜った本丸御殿側まで延びていました。
石垣は野面積(のづらづみ)の手法で構築されていました。自然石の形状を活かして積み上げたものですが、自然石に加えて割石も用いられていました。石垣の高さは裏込石の分布から推定でき、何れも土塁頂部まで積まれていたとみられます。
枡形の東辺石垣と南辺石垣は、南東で直角の入隅(石垣が内側に折れ込んだ角)を形成しています。北辺石垣と西辺石垣は、北西で約110度の鈍角の入隅を形成しています。
(3)石垣構築の特徴
枡形南辺石垣
枡形南辺部の石垣は、最も良好に保存されており、東西方向の長さが約7.3メートルです。枡形の入口付近では積石がほぼ失われ、抜き取り痕が溝状に残存しています。裏込石の分布から、土塁頂部まで石垣が積まれていたと判断され、土塁の高さは約1.2メートルあります。
石垣は、径50~70センチ程度の比較的大ぶりの野面石を約2メートル余りの間隔で配置し、その間に径30~40センチの小ぶりの野面石を入れています。小面(こづら:石材の小さな面)を表にし、石の控えを長く取って隙間なく並べる手法がとられています。良好に残る箇所では石列が2段確認でき、石材は隙間なく並べて横筋を通しながら積み上げられています。
根石が枡形東辺部石垣よりもやや高い面に設置されていることや石材の用い方から、本石垣は東辺部石垣より新しい時期のもので、江戸時代中期以降に改修(積み直し)された可能性が高いと考えられます。
枡形東辺石垣
枡形東辺部土塁の西面裾部分で、野面積の石垣を確認しました。根石のみ残存し、南北の長さは5.4メートルです。裏込石の分布から、土塁頂部まで石垣が積まれていたとみられます。
石垣は、70~100センチ余の野面石を、横に寝かせるように、間隔をあけて設置し、その間に小ぶりの石材を置いて石垣の根石列を形成しています。各石材は石の大面(おおづら:石の広い面)を表面とし、控えが短い形で置かれています。また、南端入隅には、控えを短く、石材を立石にしているのが確認できます。根石に大ぶりな石材の間隔をあけて設置しているのは、その上に、より大きな石材を積んでいたことが考えられます。これは、城門の両側などに大面石を配置し、城門と石垣に威厳を持たせ、入る人々を圧倒する狙いがあったと思われます。いわゆる穴太積(あのうづみ)石垣であり、豊臣秀吉による奥羽再仕置が行われた天正年間の末《1591~1592》か、それに近い時期の構築と考えられます。穴太積とは、滋賀県大津市坂本付近を出身とする城郭の石垣普請職人集団「穴太衆」が得意とした野面積の石垣構築技法です。
なお、御台所前御門を潜った本丸御殿側の土塁北面にも下の写真のとおり石垣が1~2段残っていました。この部分の東西の長さは、4.7メートルあります。
枡形北辺石垣
枡形北辺部では、裏込石の分布状況から、土塁の南面と東面の全域に石垣が積まれていたことが確認されました。南面では花崗閃緑岩の根石が僅かに1個残存するのみで、他は抜き取り痕が溝状に確認されます。東面でも南端付近に根石が1個検出されたのみで、他の部分は抜き取り痕が残っています。土塁の高さは南面で約1.2メートル、東面および北面で約1メートルあります。
御台所前御門を潜った本丸御殿側の北面には、1~2段の野面積の石垣が残存していました。御台所前御門部分から西方へ約3メートルの長さが確認されました。
枡形西辺石垣
枡形西辺部では、入隅から1メートル程度南側で石垣1個のみが残存していました。花崗閃緑岩という石材で、野面石ではなく人為的に割られた石だと確認されました。
裏込石の分布は、入隅付近では、比較的良く残っていましたが、枡形入口付近では残存状況が良くありません。しかし、裏込石が枡形入口付近まで残存していることからみて、枡形内部全体に石垣が積まれていたと考えられます。
(4)石垣と裏込石、御台所前御門坪地業の石質鑑定結果について
石垣築石、裏込石、御台所前御門坪地業の栗石などを対象に、石質の鑑定を行いました。その結果、何れにも北上山系と奥羽山脈起源の石材が使用されていたことが判明しました。このことから、石材は城からそれほど遠くない北上川および豊沢川の河畔で調達されたと考えられます。石垣築造の段階では、北上川は本丸の北側直下から城の東辺を流れていました。よって、本丸北側直下の河畔からの石材搬出は比較的容易であったとみられます。北上川が現在の流れになるのは、流路切り替え工事が成功した17世紀後半以降のことです。
また、下の写真のように、川の力で割れたものではなく、人為的な割石の石垣積石が所々にみられました。これは、北上山系の花崗閃緑岩と判明しています。産地としては東和町土沢方面などが想定されるとのことで、遠方から割った石材を運び込む場合もあったようです。

花巻城石垣の石材調達については、次の文献史料が知られています。
- 『郷村古実見聞記』(『南部叢書(四)』所収、南部叢書刊行會編)
- 御城築直し御縄張は彦九郎政直公御代より北松斎勤中のよし。但切石等は五大堂・小山田邊より取候よし。
- 『内史畧』(岩手史叢第3巻所収、岩手県立図書館編)
- 花巻御城 御築直御縄張 彦九郎政直御代より北松斎城代にも有之 但切石等は五大堂 小山田辺より取たると云々
『郷村古実見聞記』は、盛岡藩の著名な数学者であった阿部知義が、古い伝承や藩内の経済資料等を記録したもので、文化元(1804)年の成立です。『内史畧』は盛岡藩士の横川良助の著作で、『盛岡砂子』や『奥南旧指録』など種々の史料を採録・集成した文献です。『内史畧』の成立は、引用された『盛岡砂子』が天保4(1833)年以降の編述とされるので、それ以降となります。なお、『内史畧』の上記史料については、『南旧秘事記』という文献の記事を収録したもののようです。
これらの史料によれば、花巻城の修築は17世紀初頭の北松斎時代や次ぐ南部政直が城主の時期とあり、石垣に関しての構築時期は明記されず、切石採取地の伝聞を記すのみです。史料が石切場として示す「五大堂(花巻市石鳥谷町)」と「小山田(花巻市東和町)」は、共に北上川左岸の北上山地西縁部に所在し、北上川支流の添市川で繋がった両隣の地域です。この地域の基盤の岩石は花崗岩であり、巨礫の露頭が所々に見られます。史料のとおりとすれば、五大堂や小山田の石切場から、舟運により添市川と北上川を経由して、花巻城周辺で石材を荷下ろししていたのかもしれません。また、参考事例として東和町落合の落合2区1遺跡の発掘調査で、矢穴を持つ花崗岩が出土しており、花巻城の石垣構築との関連が指摘されています。このことは、花巻城石垣の石材調達が五大堂や小山田に限定されず、広範な地域から行われた可能性を示すものです。
問題は、野面積の石垣の構築と割石の使用の関係でしょう。石垣築造当初から野面石と割石が混在していたのか、それとも後世の修理で割石が追加されたのかということです。これに関しては、今回の調査で確定できませんでしたが、花巻城の石垣に北上山系由来の割石が使用されていたという鑑定結果は、上記の史料に記された伝聞の信頼性を補強する事実と言うことができるでしょう。
(5)枡形東西両脇の土塁形状と規模
枡形の東西両脇に接する土塁は、高さが2メートル以上に達し、幅広く築かれています。西側の土塁は、西御門から御台所前御門まで連続し、今回の調査区に接する部分では櫓台状を呈しています。現況での測定では、基底部が南北約17メートル・東西約15メートル、上面が南北約8メートル・東西約10メートル、高さは約2~3.2メートルです。江戸時代の『花巻御城廓図』によれば、この西脇の土塁上には建物が描かれており、本来は敵兵の侵入に備えた櫓が存在していたと考えられます。
一方、東側の土塁については、『花巻御城廓図』に土塁頂部の木柵や漆喰塀が描かれていますが、調査ではこれらの痕跡は確認できませんでした。また、西側のような建物の描写は見られませんが、兵の配置を想定して幅広く築かれていた可能性があります。現在は公園の芝生面からの比高が小さいものの、これは公園造成により土塁の根元から中腹にかけてが埋められているためで、実際の高さは2メートル以上であることが確認されました。
(6)土塁断面から観察される内部構造と構築時期差について
枡形内で西辺石垣と北辺石垣が入隅となる箇所は、切通し道路により破壊されています。ここを利用して、土塁の構築技法や構築の時期差など内部構造を確認しました。これにより、花巻城時代の土塁と、これに先行する古い土塀の遺構を確認することができました。
花巻城時代の土塁は、次の写真のとおり褐色土・褐色砂礫土・黒色土などの大きな土の塊を粗く盛った構造と確認されました。本丸御殿側の整地層の上に土塁構築土が載っていることから、御殿部分の整地と土塁築造が一体的に行われた土木工事であった可能性が高いことも分かりました。土塁構築の大量の土砂の供給源は、堀の掘削土であったと考えられます。また、土塁構築土の直上で石垣の裏込石が検出されています。裏込石と土塁との間に旧表土層が認められないため、土塁構築による枡形整備と石垣築造の間に時期差は無く、一連の土木工事だったと考えるのが自然です。なお、今回の調査では土塁内部から遺物は出土しませんでした。
花巻城時代の土塁内部には、構築手法が大きく異なる部分が確認されました。その立ち上がりは壁面状を呈し、暗褐色土や黒褐色土が数センチ単位で薄く重ねられ、極めて緻密に締め固められています。花巻城時代の土塁が土を一気に盛り上げて築かれているのに対し、ここに見られるような丹念な土の積み重ねは、様相を著しく異にしています。
この遺構は、古代以降にみられる版築工法による築地塀と考えられ、花巻城に先行する遺構とみなすのが妥当です。築地塀の規模は、基底部幅が約2.5mと推定され、高さ1.2m・上幅1.0mを測ります。
江戸時代の松井道圓による『和賀稗貫郷村志』(享保11年〈1726〉)によれば、本丸にはかつて瑞興寺が所在し、築城に伴って現在地へ移転したとされています。今回検出された築地塀が瑞興寺に伴うものと断定はできませんが、当該遺構の時期を考えるうえで有力な手掛かりとなる可能性があります。
2.出土遺物
本調査で出土した遺物の大半は、土塁を覆う表土および盛土層から出土しました。この盛土は、比較的近年の生活廃棄物も多く含まれており、本丸内を削平した土や城外から運び込まれた客土だと考えられます。この状況から、出土遺物の大半が原位置を保持していないものとみられます。他方で、遺物群の構成は従来に本丸御殿跡で確認されたものと特段の相違を示さないことから、これらは本丸御殿に関連する遺物であると判断して差し支えないと考えられます。確実に遺構に伴うと認められる遺物は、御台所前御門 P1 の集石中から出土した僅少の瓦破片に限られます。以下、種類別に出土遺物の概要を述べます。
(1)陶器
中世の遺物としては、美濃産の志野の菊皿が出土しました。年代は16世紀末で、長石釉を施しています。近世の遺物は、美濃産の擂鉢、肥前産の鉢、大堀相馬産の皿・瓶、在地産の碗・皿・擂鉢などがありました。肥前産の鉢は、令和5年度の本丸御殿台所跡で出土したものと接合するものがありました。このことは、前述した本丸御殿側の削平土を枡形側に盛ったとの推測を裏付けるものです。
(2)磁器
中国産青花碗の小破片(16世紀、明代)が1点出土しています。最も多いのは肥前産で、17世紀末以降の大量生産流通の製品です。内容は、染付碗・皿・水滴、青磁皿があります。また、19世紀後半の瀬戸産の染付碗が出土しています。
(3)瓦
出土瓦の大半が燻し瓦で、軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦が確認されました。令和5年度に続き、向鶴文の軒丸瓦が1点出土しています。盛岡城跡の調査で17世紀中葉~後葉の時期とされる筆羽双鶴文をもつものです。本丸跡では2例目、花巻城全体では3例目です。
また、御台所前御門跡の坪地業P1から赤瓦の軒平瓦1点が出土しています。これは本瓦葺の瓦です。この瓦が近世の遺物であれば、花巻城での赤瓦出土として初例となります。ただし、この瓦当文様は盛岡城でも類例が確認できておらず、今後類例を調査し、後世に混入した可能性も含めて検討を加えることとします。
(4)古銭
古銭は8点出土し、全て寛永通寶でした。時期の判明するものは、鋳造年が寛永13(1636)年頃とみられる古寛永が2点、寛文8(1668)年~元文5(1740)年頃の鋳造とみられる新寛永が5点あります。
(5)和釘
和釘は約207点出土しました。頭部形状が正方形のものと長方形のものの2種類があります。これらは本丸御殿等の解体時に部材から抜き取られたものと考えられ、そのため大半が曲がっているか、途中で折れた状態となっています。
3.調査のまとめ
御台所前御門跡は、二ノ丸から土橋を渡り枡形内に入って右折・左折した先、本丸御殿に面した位置に東西の石垣に挟まれて検出されました。門跡では坪地業4基が確認され、主柱と推定されるP1・P2はそれぞれ直径約170センチ、控柱と考えられるP3は約130センチで、P1とP2の芯間は約3.2メートル、P1とP3は約1.8メートルを測ります。P2北側のP4は撹乱を受けた痕跡を示し、トレンチ断面では土坑状の掘り込みが認められました。これらの配置・寸法や絵図面から、薬医門形式の礎石建ちの門である可能性が高いと考えられます。
枡形の平面形は概ね東西約20メートル、南北約5メートルの長方形で、周辺には石垣が巡っていました。枡形土塁の断面からは、花巻城期と考えられる粗い盛土層と、それに先行する築地塀が確認され、構築に時期差があったことを示しています。
石垣の残存状況は必ずしも良好ではありませんが、野面積みの石垣が確認され、花巻城の築城当初に遡る穴太衆による構築と推定されます。花巻城のその後の変遷については、明治6年に城内の建物や樹木、武具類が入札によって民間に払い下げとなり、石垣の積石も取り外され払い下げられています。発掘調査で確認された石垣の状態は、廃城後の花巻城がどのように変化したかを示す貴重な証拠であり、その歴史的な意義は大きいと言うことができます。
石垣の石材は、北上山系由来と奥羽山脈由来とが混在し、河川に運ばれた石と人為的に割られた割石の両方が見られました。
出土遺物は中世から近世にかけての陶磁器片、燻し瓦・赤瓦片、寛永通宝、和釘類などです。ただし、出土層中には撹乱を示す近年の廃棄物の混入も確認されたことから、原位置を留めるものはほとんど無いと考えられます。
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